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エッセイ



「建築遺産」を残すのも建築家の仕事

中学1回生 吉澤 幸夫

■今から45年前(1964)
 東京でオリンピック競技が開催された

 丁度その頃、私は東京タワー近くで分譲マンション(内藤多仲構造設計)の現場監理をしていた。10月10日の開会式の当日、私は開始時刻にタワーの展望室に上って会場から立ちのぼる聖火の煙と航空自衛隊の飛行機が五色の輪を描くのを見ている。
 東京タワーはご存知のように内藤先生の構造計画により昭和33年(1958)に完成した。先生は学術面だけでなく実作者として、また教育者として最も畏敬すべき方であった。所謂「建築家」ではないが私達がいくつかの設計実務に際して接した折に受けた教えは、依頼者の信頼に応えて高い倫理観をもって責任を全うするなど、すべて現在の我々が守っていかなければならない事柄であった。
■私は進学についてあれこれ迷ったが、
 何故か建築学科を選んだ

 そこで受けた建築教育は第二次大戦の終った直後であって正にモダニズム建築推進の真っただ中であった。その頃は満足な雑誌や参考書もなく、度々古本屋などを回ったが偶々目に止まったBrunoTautの『アルプス建築』を見て驚いた。建築家とはこのような構想もするのかと……。
 卒業間近であったろうか、ある日教授室に伊東忠太先生(既に教職は退かれていた)が訪問されたと聞き、極少数の学生を集めてお話を伺った。私は深い感銘を受けた。近代建築一辺倒とは違うと。私が建築家を目指した一つの機会であった。
■建築や街並の保存再生は難しい
 人類が生存して行くための拠り処としての営為は不可欠である。これは動植物であっても同じで合目的であるし且つ美しい。けれども現代の大都市や街並が多くの矛盾を抱え美しくないのは何故だろうか。
 私が大学の研究室に勤務していた時期、旧帝国ホテルの保存問題が起り、国家としての動きもあったが、結果としては失敗であったと思う。
 研究室の明石信道教授は極めて冷静な判断をされ、調査実測による記録を残すという行動をとられた。ホテルの解体の進行に伴って実測は行なわれた。私は直接担当ではなかったが先生のお供をして現場に立会った。あの品格のあるスペースや美しいディテールも次々と打壊されていった。日本いや世界にまたとない尊いものが消え去った。
 その結果は『旧帝国ホテルの実証的研究』(東光堂書店発行)の一書にまとめられている。
 建築は時と共に使命を終え、物としては劣化してしまう。物体だけでなく技術や思想まで失われる。時代はどんどん変革している。建築家の役目は新しい社会の要請を受けて環境創造をしなければならない。同時に後世に残すべき遺産をどのように選び保存再生すべきかを考えることである。

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初代校長 手塚 昇 先生のこと

中学1回生 藤本 義男

 

 都立武蔵中学校の絞章─旧校章─について以前から疑問に感じてたことを遅ればせながら調べていた過程で、たまたま、このエピソードを耳にすることができた。
 手塚校長は、明治28年(1895年)生れであるので、日露戦争のことも、うっすら記憶されておられたであろう。東京高等師範文科第三部(英文学)在学の時代は、第一次世界大戦中で、まだ日英同盟は継続していた。東京帝国大学文学部国文学科在学中の大正12年(1923年)に関東大震災があった。概ね先生の学生時代は、いわゆる大正リベラリズムの時代にあたる。
 軍縮会議、世界恐慌を経て、満州事変(1931年)、五・一五事件。二・二六事件と日本および世界の情勢の変革は大きく、次第に日本は、国粋主義、軍国主義に傾斜し、昭和13年(1937年)日中戦争勃発、日独伊三国同盟締結(1940年)と、次第に世界の中で孤立していく。欧米にあこがれながら、欧米、何するものぞ、というムードを日本人の大多数がもっていた。
 手塚校長は、高師卒業後、義務年限を奈良県立郡山中学校英語教諭として過された。その期間、高師卒という学歴に悩まれたことが起こったようで、決心されて大正10年(1921年)東京帝国大学文学部国文科の選科生になられる。しかし向学の志は固く、旧制高等学校卒業生に優先されていた本科の道を大正12年、第一高等学校で改定資格をとることによって選ばれて、大正13年、本科生として卒業、正式に学士号を得ておられる。努力家で、負けず嫌い、明治生れ特有の気骨のある人柄で、頑固さをもっておられたようだ。
 英文科の経歴、大正期の西欧的な思想を基本にもっておられながら、公立中学校の教師として、また管理職として、時代が国家主義に変り、ご自身もその流れに従わざるを得なかった矛盾は、自分でも気がつかれ、言動に現れたことがあったのではないか、と私は考えている。ただ、ヒューマニストの姿勢は、一貫して変っておられなかったと思う。
 このエピソードは、手塚校長の一側面であり、伝記の一部として紹介するものでない。この話だけで、故人を、あまりにも「立流な人」としてもらっても困る。
 手塚先生が、府立第二十一中学校の校長となるべく開設準備委員となられたのは、昭和15年(1940年)である。翌年4月8日、桜の満開のなか一回生の入学式が行なわれ、府立二十一中は誕生した。新設校であり伝統もない白紙の中学校へ、初めて校長職につかれた、夢は大きなものがあったと思う。
 創立当時から戦争が激しくなるまで、手塚校長の選ばれた諸先生方には、優秀で個性のある方々が多かったのをみても、意気込みと、姿勢を窺うことができる。
 昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が始まり、その後4年間、日本は、全世界を敵にまわして戦った。昭和20年(1945年)8月15日、無条件降伏、敗戦後の混乱、その時代を背景に考えていただきたい。
 軍隊では、私的制裁が日常茶飯事に行なわれており、中学校教育にも、その影響が徐々におよんでいた。
 第一に、手塚校長が諸先生方に対し、厳しく「生徒を撲ってはいけない」と申し渡したとのこと。生徒の身体に傷つけてはいけないことである。生徒を撲ったことが手塚校長に知れると、その先生は、校長室に呼ばれ、叱責されたそうである。
 第二に「時間を守ること」。生徒の遅刻には、非常に厳しい対応があった。それ以上に生徒を指導する諸先生方の遅刻には厳しく、校長室から出勤の状況をみて、強く注意されたとのことだ。これを恐れた先生のなかには、裏側からこっそり入った方もおられたとか。要は、生徒第一の主義であられた。
 このことが具体化したのは、不幸なことであったが、学徒の勤労動員の時である。
 昭和19年(1944年)初夏、今になって考えてみると、既に敗戦の色も濃く、先生方も次々と戦場に赴き、軍関係の工場は人手不足となり、学徒動員令が施行され、中学校、高等女学校の4年生以上は、軍関係工場へ労働者として派遣されることが決まった。
 わが校は、中島航空金属会社田無工場に行くことになった。その時、手塚校長は、西欧的というか、工場側と「生徒を生命に危険な作業につかせない。」との内容の約束を固く交したそうである。
 勤務は、午前7時から午後3時、午後3時から午後11時、始発電車で家を出て、最終電車帰る、という二交代、深夜勤務は、年少(15、6才)のためか、手塚校長の交渉のおかげか、まぬがれた。
 作業のなかに、航空機のエソジンをアルミニウム合金鋳もので作るものがあった。電気炉で赤黄色に溶かしたアルミニウム、大釜から、大きな柄杓でこれを汲みとり、鋳型まで運び流しこむ作業である。転べば大火傷はまぬがれず、水滴が入れば爆発をおこす。手塚校長は、何回も当局に抗議をしたが、最終的には聞き入れられるどころか、派遣の軍将校から逆に恫喝される始末。
 手塚校長は怒った。勤務時間が変る時には、最終電車で深夜に帰った生徒が、翌朝始発電車で出勤しなければならず疲労しているうえに、こんな作業では明らかに約束違反であり、即、撤収を考えられた。
 サイパン島は占領され、アメリカ軍が刻々と本土に迫っていた時期である。軍当局もこれを問題にしないはずはない。先生方のなかにも時局をわきまえず、手塚校長は行きすぎだとの議論も多かったという。
 交渉は、田無警察署で、憲兵隊、警察署長、工場長、学校側から手塚校長、担当の先生方、交渉時のテーブルの上には、当時として考えられない「山海の珍味」がもられ、先方からまず食事でもしてから相談しましょう、との申し出がなされた。
 しかし、手塚校長は、食事は話が終ってからと固辞され、後は激論の応酬で話し合いはつかず、遂に食事はせず帰られたとのことであった。
 数日後憲兵隊本部から、手塚校長一人だけの出頭命令があった。諸先生は、当然手塚校長は解任、管理職も退任を覚悟されたそうである。
 ところが手塚校長は、もち前の雄弁で憲兵隊の費任者を説得し、直ちに中島航空金属会社より日本無線へ配置転換となった。井上先生は、多分手塚校長は、憲兵隊の責任者に、自分のご子息ならどう判断しますか、といった話でもしたのではないか、と当時を回顧しておられる。
 手塚校長は、本土決戦で本土が戦場となり、戦って死ぬのならいたしかたないが、工場の動員中、大切な生徒の生命が失われるのは犬死で許せない、といっておられたそうである。
 当時は食糧不足で、そのため校庭を耕し、サツマ芋畑に動員に行かなかった下級の生徒が作業した。担当の某先生が、芋苗を用務員を使って農家へわけてもらいに行かせた。ところがもらってきた荷は、使い残りの貧弱なもので、とても芋はできそうになかった。その時、手塚校長は、「生徒が汗を流し、体力を使って作った畑、苗は、どうして責任者の君が直接、農家へ行かなかったのか」と叱られたとのこと。この件でも、生徒第一の思想が垣間見える。
 戦中、戦後とも在任中、学校全部の生徒の家庭状況、親、兄弟姉妹のことは、担任よりもよくご存知だったとのこと。毎日のように校長室で生徒の調査書に目をとおされておられたそうである。
 先生方が書類を校長に提出するとき文字が乱雑で読みにくいと、下手な字でもよい、他人が理解できる文字、文章を書けと、注意があったそうだ。学校の費用での私的飲食は厳禁であり、接客婦など女性を宴席によぶことなどはもってのほかであった。
 戦後、昭和22年(1947年)、GHQの指令で、六・三・三・四の現在の学制が発足した。そのとき一時、旧十八高女の校舎敷地、3千坪弱を中野区立八中に貸したことがあった。その後、中野八中PTA、中野区、東京都、背後にGHQの半ば命令的な、旧十八高女用地譲渡の話がでた。その交渉には、井上先生も同席されたそうであるが、この時も手塚校長は職を賭して出席され、高校には最低1万坪は必要であると頑とし受けつけず、とうとう自説を貫き、現在の用地を確保した。
 手塚校長は、自らにも厳しくされておられたが、そのためほとんどご自分の主張は変えず、諸先生に相当きつく当られたようで、叱責を受けた先生のなかには、手塚校長を嫌われた方々も何人かおられたとか。
 手塚校長は、自分が教師をやめるまで武蔵丘でと決めておられ、栄転は何回も断っておられたそうであるが、やむを得ない事情があったのだろう、昭和24年(1949年)都立第五女子新制高等学校(現富士高校)へ転出された。
 こんな話を校章調査の過程で、はからずも古い先生方からお開きした。知らなかったことばかり、驚きの連続、であった。
 当時は戦時中でもあり、私を含め友人の多くは、諸先生から撲られた経験はあるはずで、手塚先生がとられた方針に対する違反はあった。
 敗戦前後の混乱した時期には、手塚校長の方針は、必ずしも諸先生、生徒に十分浸透していなかったかも知れない。
 ただ、今になって振り返ってみると、手塚先生は、校長先生らしい校長先生であった、と、しみじみ思う。

手塚先生略歴
明治28年2月28日生
(栃木県下都賀郡姿村)
大正3年3月
  栃木県立下野中学校卒業
  8年3月
  東京高等師範文科紡三部卒業
大正8年4月~同10年3月奈良県立郡山中学校教諭(英語)
  10年4月
  東京帝国大学文学部国文料選科入学
  12年4月
  高等学校卒業検定合格 東京
  帝国大学文学部国文科本科転籍
  13年3月
  東京帝国大学文学部国文料卒業
  13年4月
  東京府立第八中学校教諭
昭和14年6月
  東京府立第七中学校教諭
  16年2月
  東京府立第二十一中学校校長
  24年6月
  東京都立第五女子新制高等学校校長(現富士高校)
  30年9月
  東京都立富士高校校長勇退
  34年4月
  二松学舎大学教授
 以降藤女子大学、水戸短期大学教授等を歴任
昭和46年7月16日歿(享年76才)



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事実は小説より奇なり 人生に縁の連続もある

 この体験談は全く私の個人的なもので、皆さまに発表するのは忸怩たることもありますが、あんまりこのような事はない、と思いますため、恥をおして書いてみたいと思います。
 昭和二十三年(1948年)、私は二十歳、旧制高校を三月に卒業、学制改革のため、私達の三分の二弱、東大不合格、仲間が多いので、そんなにショックはなかった。
 白線浪人と呼ばれた旧制高校生があふれていた。
 三月末、白線浪人組の私達四人が鎌倉の同級生の家、実は雪下にTの家があり、その離れに空襲で焼け出されたNがいた。そこにTKと私が集まり、一泊して議論をしていて、そうしている中で、明日、箱根経由で熱海の同級生のFの家に行こう、ということが決まった。
 全く無鉄砲な計画で、Fにも連絡していない、地図も持たず、列車などの時刻表も調べず、今になった考えると、全くどうしてこんなことを考えたのかもわからない。
 翌朝、六時半頃、出発、東海道線で小田原まで、箱根登山鉄道で強羅へ、電車は、われわれは座ったが、出発のとき超満員、前には若い女性、五、六人づれの中に年寄りがいたので、私達は当然のように席を譲った。
 強羅から山登りが始まるが、当時は戦時中、資源として、レールを供出していたので、その線路跡の急坂を登ることになる。坂の中頃に、夫婦と、三人の女の子の家族が見えた。
 当然、私達は追い越す。挨拶すると、奥様が美人で、子供達は、小学校三年ぐらいを頭に三人、非常に印象に残った家族であった。
 大湧谷で、事件が起きた。当時は、出入りは自由で、上に、二十歳ぐらいの女学生と三人ほどの教師がいて、そのうちの教師の一人が、生徒の歩く路を造るため、石を下に足で蹴って落とし、その石が私達に向かって転げ落ちて来た。私達、白線帽、マントの四人は当然のように下から教師に、登山のルールに反する、と声を出した。
 ところが、その教師は、詫びるどころか開き直る。きっと、生徒の面前で旧制高校生に怒られるのは恥だと思ったらしい。しばらく言い合いとなる。三十分ぐらい続いた。最後は他の教師二人が、その教師を説得して大事にならずにすんだ。  また山登りを続け、湖尻に着いたのが昼ぐらいになった。
 湖尻から元箱根までの芦ノ湖を船で、今のような大きな船でなく、三十人くらい乗っていたと思う。大湧谷のことがあったため、追い越した夫婦連れと船の中で再会、昼飯や、ウイスキーを、ふるまわれ、元箱根に着く。
 元箱根から熱海行きのバスは、満席で切符が買えない。そうしたら、登山鉄道で席を譲った女性のグループが、最終バスだからと言って、私達四人分の席を買って待っていてくれた。私達は、それで熱海に行けることになったが、船中で再会した夫婦たちは、切符が買えずに困りきっている。戦後まだ日がたっていないので、ハイヤーも呼べず、泊まる所もないらしい。そこで私達は相談して、私達の席を、その家族に譲り、熱海まで歩くことにした。
 道路は自動車専用で番人までいた。仕方なく尾根づたいに行こうと決め、バスの発車を見送り、又、山登り、熱海までの尾根は芝山で、見通しがきく、途中、山の上に黒い人影が見えたので行ってみると、源実朝の歌碑の上に鳥が止まってたのを、人影の間違えたのであった。十国峠だった。今のように、ロープウェイがなく、ただ十国峠の表示だけはあった。
 そこから下り、熱海に着いたのは五時は過ぎていたと思う。すぐFの家に行く、Fは不在、泊まろうとしていたが仕方なく帰京することとした。
 バスで別れるとき夫婦づれと、熱海に着いたら、大野屋旅館に宿泊しているから、電話してほしいと言われたのを思い出し、公衆電話から大野屋に電話して、熱海から帰京することを告げると、どうしても大野屋まで来てほしい、と何回断っても、来てくれと言う。
 当時、食糧難、米を持たず宿泊は不能、でも余り強くすすめるため、行くことに決める。  又、駅から現在も残っている大野屋まで歩く。丁度、食事前の時間で、先ず熱海名物だったローマ風呂に入る。当時ローマ風呂は混浴で、夫婦づれも一緒に温泉につかる。
 入浴後、食事を共にする。女の子三人は、躾がよく、私達の食事の世話をよくしてくれたと憶えている。よほどの常連であったと思う。今考えても、大変なご馳走で、酒類も大分飲んだ。その時、ご主人が、名刺をくれた。大阪の織物会社の社長さんで、谷口さんという人だった。バスの中で奥様が、私達を拝んでいたと言う話もしてくれた。飲みすぎでTKは悪酔いした。翌朝、食事後、宿を出て別れ、帰京、その後谷口さんと連絡はとっていない。
 これで終わりなら、まだ不思議でないが、後がある。元箱根に向かう船の中で谷口さん一家と一緒に写真を何枚かとった。その時、後ろに女学生が数人写っていた。
 四月になって、浪人中のアルバイトを探していたら妙なことから、都立第六高女に行くことになった。旧制高校卒業で新制中学の教員資格があり、当時、新制高校に附属の中学の三年生だけ残っていたので、一応、勤務は可能だったのだ。四月末、行ってみると、高校三年生が二十名ぐらいいたが、その中の十名ほどが、芦ノ湖の船に乗っていて写真に、写っており、彼女らも私達のことをよく覚えていた。これも本当に驚いた。
 筋書きは以上のとおり、小田原から熱海までの間で、こんな偶然が重なった。その後この様なことは体験したことはない。  「情けは他人の為ならず、そのもの」あの時から六十年たった。今、心残りは、その後谷口さん一家のこと、幸せにしておられることを心から祈っている。文通でもしていればと心残りである。
 この体験談を、太平洋戦争、敗戦後の混乱期の状況を、経験のない皆様に間接的でも理解して、いただければ幸いと存じます。

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月見草

待てど、くらせど、来ぬ人を
 よいまち草の やるせなさ

 竹下夢二作詞の、なつかしの曲があります
 夢二は、野口雨情に、待宵草を、宵待草と間違って作ったと伝えたと言う後日談もあります。
 待宵草、黄色い花で、夜咲くため現在、多くは月見草と呼ばれています。
 待宵草の仲間は「アカバナ科」で、北米に多く、南米にもあります。
 日本には、外来種を主体に五十種ほどあります。中には昼に咲くのもあります。
 本当の月見草、北米原産、1848年頃、観賞用として入った花径五センチほどの白花で、夕方咲き、朝になるとピンクになりしぼむ一夜花で、弱い草で野生化しにくい草花です。
 私も作り写真もとりましたが、とうとう枯らしてしまいました。今や幻の花とも言われています。
 夢二の詞の「まつよい草」、当時、東京近郊に多く咲いていた黄花の大待宵草だと思います。大待宵草、北米原産、ヨーロッパで改良、草丈、1メートル以上、花の大きさ八センチ程度、1851年ごろ、園芸種として入ったものが逃げだし、野生化したもの、二十年ほど前まで、河原や、山の裾野に沢山、咲いていて、これを世間では月見草といっていたようです。
 日本に、やはり同時期(1848年ごろ)に南米原産の花径、五センチ、草丈、六十センチ、園芸用の黄花の待宵草も入りましたが、これも次第に野生化、野原などで見かけるようになっています。
 そのほか明治になって草丈1メートルですが、黄色の花は二センチ完全な雑草の「あれち待宵草」が、はびこりました。
 こういう野原に咲く、草花、特に外来種、西洋タンポポは、どうも日本在来種を殆ど絶滅させようとしている現在ですが、「セイカタアワダチ草」も含め、特に待宵草の仲間、都市部では勿論、郊外でも最近、見かける機会が減って来ました。
 待宵は十五夜の月を待つ旧歴十四日の宵のことを言い、花の形が完全な円形でないので名づけた、日本人らしい優雅な命名です。
 ヨーロッパでは、葉を食用とするそうで、日本でも花を「オヒタシ」にすると(私は食べませんが)、ぬるぬるしておつな味と言います。
 まあ、それはさて置いて、河原に、大待宵草のむれを見つけたら、夏の夜、ロマンチックな時間を過ごしてみたら如何でしょう。
 渡来年月は、文献により若干異なります。その点は確信はもてません。ただ、当時、三種類の草花は前後して入って来たようです。

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すみれ

 山路(やまじ)きて 何やらゆかし
       すみれ草                   芭蕉
 “すみれ”は、昔から身近にある草で、花が可愛らしく、美しく、香りのよい種類もあり、雑草に近いとは云え“春”も身近に感じさせるものです。
 植物分類学では、スミレ科スミレ属、北半球温帯を中心に多くの種があり、木本もあります。世界のスミレ属の木本種は、約450種、日本のスミレ属は、全部草本で、基本種は60種弱、南は沖縄から北は北海道、海岸から高山まで分布し、世界の中でのスミレ大国です。
 子供のとき、すみれの花の後ろに突き出ている“距”といわれる部分をからませて、二人向き合い引き合う、すみれ相撲をされた経験をもたれる方も多いと思います。花が残った子供の勝ちです。それほど沢山のすみれがあった時代です。
 私の育った都会、小さな庭でも、道端、空き地、いたる所に春、紫色のすみれが咲いていました。
 30年ほど前、私は郊外に住むようになり、すみれを見つけると庭に移し、五、六種類育て、春の来たのを改めて感じていましたが、最近、気がつくとなくなっています。近所を探しても以前よりありません。
 私の見ている範囲では、都会のすみれは最近、少なくなっているようです。環境の変化のためでしょうか。
 ただ日本はすみれ大国、まだ沢山残っている場所は多いはずです。
 すみれは“紫”との印象がありますが、黄色もありますし、赤に近いものもあります。狭い地域限定で繁殖している種類もあり、そこの住民は普通種と思っていても、案外珍しい種類もあるとの事。
 日本のスミレ、更に15ほどの節に分類されます。普通、スミレと呼ぶ紫色のものはミヤマスミレ節で、その他、タチツボスミレ節、スミレサイシン節などです。
 スミレの“好事(こうず)家”は、野生のスミレを鉢で育てたり、交配して交雑種を作って楽しんでいます。山野草として売買している店もあります。
 ヨーロッパの人達は、野生のスミレ科の草からパンジーを、山に咲く和名「豚の饅頭」と呼ぶ、貧弱なサクラ草科の野草からシクラメンを園芸種にしました。
 世界のスミレ大国日本人は、青色のバラを作る技術を持ちながら、園芸種は今のところ出していません。やはり“野に置けすみれ草”なのでしょうか。ただ、スミレは環境が悪くなると、閉鎖花といって蕾のままの状況で自家受粉し種を作る能力があり、園芸種の妨げになっていたのかも知れません。
 宝塚の「すみれの花、咲く頃」ばかり有名になり、すみれの花を観賞する余裕がないのは、淋しい限りです。スミレの小さい花を見ているだけで都会の人達の心をなごませると思います。
 夏目漱石の草枕の冒頭、主人公が山を登りながら「情に逆らえば角がたつ、情に棹させば流される。とかくこの世は住みにくい」と考えながら歩いた小路にも、スミレが咲いていたような気がします。

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わらべうた(童謡)

 私は、目白と池袋の間で1930年代に子供時代を過ごしました。
 その頃、男も女も子供はみんな、むれて遊んでいました。空き地あり、道も危険なく絶好の遊び場で、午後は戸外にいました。
 女の子はよく“童うた”を口ずさんで遊んでいました。その時代のわらべ唄“ずいずいずっころがし、ごまみそずい、茶壺におわれて、とっぴんしゃん…”“通りゃんせ、通りゃんせ、ここは何処の細道じゃ、天神様の細道じゃ、行きはよいよい帰りは恐い、恐いながらも通りゃんせ、通りゃんせ”など、その他輪ゴムをつないで紐を作り、それを跳び越すゴムとびなど。
 ただよく考えてみると、“童歌”の意味がよくわからない、その意味不明の“唄”を長い間口伝えに歌い続け、その“唄”で「遊技」をしたことは今ではよく理解できません。男の子は“ベー独楽”“めんこ”“三角ベースの野球”その他草原で虫取りもしました。その虫の中に河原にいる“川とんぼ”に似てずっと小さい“糸とんぼ”、長さ4センチほどの“ぎんやんま”や“麦わらとんぼ”に模様がそっくりなのがいました。それを“トーセミ”とよびました。バッタもとりました。一番貴重なのは大きい“オート”でした。みんな正しい名前は知りません。
 大人になって“トーセミ”は“燈心とんぼ”の略、“オート”は“大殿様バッタ”と気づきました。子供は言葉を適当に略したり、口伝えのうちに“燈心”を“トーセミ”に変えてしますことが起こっていたのではないでしょうか。今の若者言葉のように恣意的なものではないものの、これではこれでは“童唄”の出来る前の物語、単語や接続語のある長い歌詞の“童唄”が、口伝えのうちに忘れ、意味不明になるのも無理ありません。
 “童唄”のなかに“お月様いくつ、十三、七ツ、まだ年しゃ若いよ”があります。
 沖縄石垣島の“童唄の子守唄”に、
 “付のかいしゃ(可愛さ)はあ、十日、三日ゃ-(十三夜)みわらび(乙女)かいしゃや、十、七ち”
というのを、沖縄勤務のとき偶然見つけました。
 これこそ“お月様いくつ”の原型であると推定できます。子供に歌いつがれる間、途中が略され意味不明になったと思います。
 地方により“童唄”はあり、調べると原典や意味がわかるかも知れません。
 今こそ、少し前の時代子に供達に歌われていた“童唄”を、それにともなっている“遊技”と共に録音などして、後生に残したいものと考えています。
 今の子供は、戸外でむれて遊ぶことは少なくなっていると思います。口伝えで“童唄”が伝えられる機会は、まずありません。

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武蔵(武蔵野)の変遷

今、里山やトトロの森、雑木林−クヌギ・ナラ等の落葉樹林−が話題になっています。
 1901年、国木田独歩がわが母校の「武蔵」の名前を含む“武蔵野”を書き、雑木林の美しさを随筆で表現しました。その場所は渋谷から始まります。当時渋谷から西の台地は、畑と雑木林が続いていました。
 時代を遡って千年以上、古くなると“野”がつくだけであり、万葉集などでは「すすき」の生えている野原の武蔵野になります。
 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、賊にかこまれ火をつけられ、草薙剣(クサナギノツルギ)で“ススキ”をはらい火から逃れ、剣は三種の神器になっています。新田義貞が鎌倉時代後期、北条氏を討つ時の小手指古戦場もすすきの原でした。
 もっと古く2000年以上前の縄文後期、弥生時代の武蔵野は冬期に落葉しない照葉樹林の植生だったと推測されます。名残は神社の杜に残っています。
 その後、渡来人や土着の人々が開拓、焼き畑の手法を使い火は一般の森にも及びました。武蔵の国と言えばすすきの原の武蔵野に代表されるように変わって行きます。
 500年ぐらい前になると、すすきの台地、水の少ない台地を畑に変えるようになります。元来は照葉樹である土地に植生でない、伐採しても再生可能なクヌギ、ナラなどを開拓する畑の五分の一程度植林して行きます。林は冬になり落葉すると、生えてくる照葉樹の幼木や、不適当な草や木を落葉と一緒に整理し堆肥を作ります。木は20年ほどで切ると、切り株から再生しもとに戻ります。切った木は燃料にします。林床は日光が入り明るく、スミレやカタクリが咲くようになり、これが武蔵野台地の畑作農業型で定着し、独歩の随筆にもなってゆく訳です。
 独歩の随筆から40年後、1941年に母校が設立されました。我が校の西側の石神井川の水田地帯までの台地は、クヌギとナラの雑木林と畑の点在する武蔵野でした。校地を作るとき偶然残ったのが、現在の“クヌギ林”だと思います。
 300年前、徳川綱吉の側用人だった柳沢吉保は川越を治めました。現在の埼玉県三芳町に真中に10m以上の路を作り、街路にケヤキを植え、両側に一軒につき5ヘクタールの敷地を割り当て、そのうち1ヘクタールをクヌギ、ナラの林とし燃料と堆肥を供給できるようにしました。上から見ると短冊を並べたような開拓地を作り、180戸を強制的に入植させました。それが現在も残っている三富(サントメ)新田です。今でも無農薬、化学肥料なしで作る川越いもの名産地となっています。よく整理された雑木林があります、先人の知識を、吉保が意図して取り入れたものです。
 母校に残る“クヌギ林”は、昔の人達の知識と努力の結晶でもある武蔵野の雑木林の一部が残存したものです。歴史の自然博物館とも言えます。現在、クヌギが大きくなりすぎ、葉が繁って日の光が林床に達せず、シュロややぶ椿などが生え荒れています。貴重な地域の歴史遺産でもあるクヌギ林は学校の宝でもあります。落葉樹林は、本来この土地の林でない人工林でもあります。何とか手入れをして、設立当時、それ以前の雑木林に戻し、末永く残して行きたいと考えます。
 話を変えます。目黒にある都の白金自然教育園の雑木林は、故意に手を入れず、どう変化して行くか調べています。現在はシュロの種を鳥が運んで来て沢山生えて、シュロが優勢になっている状況です。
 これも他山の石です。考えて下さい。

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“はなみずき”と“やまぼうし”

 今、道路に街路樹は欠かせません。在来種の“けやき”や“いちょう”もあり、外来種の“ニセアカシア”も使われています。
 無機的なコンクリートの街には、緑が必要なのでしょう。場所によって果実産地はわざわざその土地で栽培されている果実の木を使うような例もあります。
 パリから“マロニエ”を移植したと誤解される“トチノキ”、同じトチノキ科でもマロニエとは全く別種で在来種で、東京の中心部の街路樹になっています。
 日本ですから当然、各種類の“サクラ”も使用され、“道”そのものが名所となっている所すらあります。しかし街路樹も、大木となったり、木の実や落葉が交通障害になることがあり、選ぶのは案外苦労するようです。
 北海道大学の“ポプラ”も古いものですが、江戸時代の東海道などの街道の松並木や、日光の杉並木も街路樹の仲間でしょう。天然記念物に指定されていることもあります。
 ただ、今の都市の状況から、大きくなる木は避けざるを得ないでしょう。
 その点からみると、50年ほど前より増えてきている“ハナミズキ”は、大きくならず適しているかもしれません。5月上旬、白や淡紅色の花が咲き、秋には紅い実がなり紅葉もします。すでに名所になっているところもあり、街路樹として優れている木だと思います。
 知られている方も多いとは思いますが、“ハナミズキ”の原産地は北アメリカです。1915年、東京市長の尾崎行雄氏がワシントンに贈った桜のお礼としてのお返しの木で、当初日比谷公園に植えられました。
 花弁状の四枚は葉の変形で、学問的には総包弁と言います。中央の小塊が花です。正確な日本名は“アメリカヤマボウシ”といいます。アメリカがつくのは、わが国の山地に“ヤマボウシ”が自生しているからです。ミズキ科の落葉樹で高さ6から10メートル、6月頃、山中に雪が冠ったように白い花を咲かせます。白花だけです。名前の由来は、丸い蕾を法師の坊主頭に、白い包弁をその頭巾に見立てた命名です。“アメリカヤマボウシ”(ハナミズキ)と近縁で、日本特産、葉も花の作りもそっくりで、最近公園や庭木として植える傾向になってきています。
 5年ほど前から、西武池袋線の富士見台駅から武蔵丘高校へ向かう道の左側の街路樹に、この“ヤマボウシ”(ニホンハナミズキ)が植えてあるのに気づきました。その後次第に本数も増え、現在では20本以上あります。
 私は、今後街路樹は在来種で、とこだわってはいませんが、6月頃愛らしい白い花を咲かせてくれる“ヤマボウシ”があるのは嬉しいことと考えています。区画整理や街づくりのとき植えられる街路樹に、是非この“ヤマボウシ”を植えて欲しい気分です。秋には実がなり、桑の実に似て食べられます。
 皆さん、武蔵丘高校の通学路に植えられている“ヤマボウシ”(ニホンハナミズキ)、6月白い花の咲く時、地味ですが愛らしい、美しい花を是非観賞してください。

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“蜻蛉(トンボ)からみえるもの”

 私は都会で育ちました。家の周りに田や畑こそありませんでしたが、屋敷林も多く、近くに草野球用の球場と、球場の4倍ほどの広さの草原(クサハラ)に囲まれ、恵まれた環境でした。草原には、近くに川や池もないのに、夕方“ギンヤンマ”が群れていました。“ムギワラトンボ”は普通に見かけられ、草の中には“イトトンボ”、秋の運動会の空は“アカトンボ”が覆っていました。どこかの池や沼から飛んできたのでしょう。“トンボ”のいる街は、今では我が国では見られません。
 農業は、産業革命より大きな自然破壊を起こしました。森林は伐採、河川は蛇行する習性を抑えてまっすぐに。弘法大師説が残るほど、領主も治水に力を注ぎます。だだ、武田信玄の霞堤のように自然の力を利用、あふれるのを想定した堤も作る。そのため農家は土台を高く、食糧も蓄え、舟を天井につるすなど備えました。その規模の大きいのが、木曽、長良、揖斐の三河川の集まる地域に数軒の家が土地を高く堤防で囲み、洪水に備える輪中(ワジュウ)部落を作ったほどです。
 明治になると、政府はオランダが海に堤防を作り国土を拡大した技術を学び、我が国の治水事業の基本にします。
 河川の堤防を高く丈夫にし、蛇行を抑え土地を増やします。平野の部分が多い石狩川は短くなり、信濃川が日本一長い川になります。その結果、洪水の時遊水池にもなる湿地や沼などが減少、大規模なものは渡瀬遊水池ぐらいになってしまいました。
 中小河川・用水路もコンクリートにし、堤防も頑丈で高くなり、大河川も直線に近づいている現状です。昔は、あふれさせて被害を小さくさせる治水が、180度変わりました。そうなると、川の水の調整は“ダム”に頼るほかなくなってしまいます。
 30年ほど前、長崎の諫早川で多数の犠牲者を出した諫早水害は、中小河川の直線化の弱点があらわれたのです。
 国土面積の狭い我が国では、やむを得ない対策であったかも知れません。
 湿地や沼などを失った都市、それが農村部にも及んでいるのが現状です。
 最近、“トンボ”“ホタル”など、水中で幼い時を過ごす虫たちの減少も、農薬の影響が大きいのは理解できますが、環境の変化が及ぼしたことも基本にあるのではないか、と思います。
 このような自然は、人間にとっても好ましいものではありません。水生昆虫のいる、緑が豊かできれいな水に囲まれた環境が、これから必要になるでしょう。
 経済成長期の両国の隅田川のドブ臭さ、多摩川下流の洗剤の泡は、人の努力で清流に戻りつつあります。
 食糧の6割を輸入している我が国は、食糧生産の源流の“水”の間接的な輸入大国なのです。その輸入先の大陸の水資源は、現在すでに危険な状況になりつつあります。
 将来、水は、石油や金属とともに重要資源のひとつに、いやもっと大事なものになるやもしれません。
 “トンボ”から人間と水の関わりを考えることができます。昔のように、夕方“トンボ”を追う世の中の復活を夢みています。

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沖縄(わした島、うちなー)

 最近、普天間基地のこともあり、沖縄がマスコミで話題になります。それでも、沖縄の実情は“本土”の人に知られていないと私は感じています。
 “本土”と今、書きましたが、北海道では“内地”と言います。何故、同じように本州から離れた場所にある島で、このように違う表現になるのでしょうか。
 沖縄では、本土の人を“ヤマトンチュウ”と呼びます。沖縄の人は“ウチナンチュウ”、首里の人は“シュリナンチュウ”です。考えてみると私達も仲間を連中と言うことがあります。同じ“チュウ”だと思いますが、実は沖縄では丁寧語です。これに対し、名護の人を“ヤンバラー”と田舎者扱いすることもあります。“チュウ”は丁寧語。“アー”と語尾を伸ばすと、見下した表現になります。では本土の人の侮辱語はと言うと、それは“ナイチャー”です。北海道では内地と本州、四国、九州と言いますが、沖縄では“ナイチャー”が侮辱語ですから、本土と言うようにならざるを得なかった一つの原因だと、私は推察しています。
 話題を変えましょう。虫の名前“トンボ”を“アキジュウ”といい、奈良時代以前の“アキツ”トンボの古語です。蝶は“ハヒル”“パピル”、まるでフランス語の“パピヨン”のようです。私も語源を調べましたが、30年以上わかりませんでした。
 最近、偶然、神道関係の文献で見つけました。蝶や蛾の“さなぎ”を“ヒル(比流)”と言い、羽化した成虫を“ヒヒル”、ヒラヒラ飛ぶ姿、動きに霊力(ヒ)を感じ“ハヒル”と呼んでいたという記述です。これで現在の沖縄の“ハヒル”系統の蝶の呼び方が、奈良以前の古語と一致することがわかりました。“ホタル”は沖縄で“ジンジン”、これはまだ不明のままです。
 天照大神が、天の岩戸にかくれた神話があります。岩戸の前で“あめのうずめの命”(天鈿女命)が、まさかきの木の葉を頭にさし、胸乳を出し、神懸かりし、桶の上で裳の紐をホトの上に垂らして踊り、神々が騒いでいるすきに岩戸の石を開けた有名な話です。沖縄ではその部分を、現在“ホー”又は“ホーミー”といいます。
 このように奈良時代以前の言葉が残って使われている沖縄、日本語を考える点からみると、宝庫とも言えます。
 奈良時代以前、日本語は八母音だったと伝えられていますが、現在は五母音、沖縄も基本的に同じです。ただ、語頭、語尾を除くと三母音になります。“エ”が“イ”に、“オ”が“ウ”に、アイウエオがアイウになり、言葉が理解しずらくなります。
 場所や、島が変わると言葉が違います。例えば“ハイ”という肯定語を、首里では“ウー”、那覇では“イー”です。極端なのは、与那国島です。“ヤイユエヨ”が“ダヂヅデド”になります。ですから“ヨナクニ”が“ドナ”または“ドナン”になります。全くこれでは意味不明になってしまいます。
 ただ、今は共通語が普及していますから、旅行者がこんな言葉を聞くことはありません。言葉が違うことは基本的なことで、習慣や考え方など、現在の本土と異なる点も多いため、沖縄を理解するには一面的に見てはいけないと、私は思います。
 主に言葉のことを記してきましたが、奈良時代以前の言葉が残っている沖縄を、もっと身近に感じて理解するよう努力することが必要だと考えています。
 もちろん、太平洋戦争末期の地上戦のことや、現在も大問題になっている“米軍基地”のことも忘れてはいけません。

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わが国の暦(こよみ)

 2010年の7月12日は、“朔(さく=新月)”です。お盆が暗い夜になりました。
 お月様の満ち欠けを基準とした旧暦を使っている地方に勤務の時、お盆の中日、旧7月15日の夜、外出すると満月で、ご先祖様のお迎えは、明るい夜を選んでいる昔の人の心情がよくわかったのを憶えています。
 正月、新春に、福寿草や梅の花をかざり七草がゆを食べますが、野外にはまだありません。大寒が1月中下旬、冬の最中です。
 旧暦は、太陽暦ともいう新暦より1月ほど季節が遅れるため、正月は春の始めです。
 旧暦のことを、私たちはよく知りません。旧暦は、朔から朔を1か月とし、春分〜2月、夏至〜5月、秋分〜8月、冬至から11月を基本にします。月の始めは朔で、一日(ついたち)になります。お月様の満ち欠けは、29日と30日のときがあります。月の周期が29日と30日の間なのです。そのため新暦のように、2、4、6、9、11月が小の月になりません。1か月が29日の小の月、30日の時が大の月で、2月が大の月になる年もありますが、1年が355日ほどになってしまいます。季節は、太陽の周期で決まりますから365日でないと困ります。
 10日、1年が短い旧暦、それを修正するため、3年に一度ほど、閏(うるう)月を作ります。2009年は5月が2回ありました。閏月です。
 それでは閏年を決める基準を説明します。二十四節季のうち、大寒、雨水、春分、穀雨(こくう)、小満、夏至、大暑、立秋、秋分、霜降(そうこう)、小雪(しょうせつ)、冬至の12を選び、その節季の間に“朔”が続くとき、閏年を作ります。但し、1月と12月は閏月にしません。官庁で公に決めているのでなく、民間でやっているため、適当なこともあるようです。
 農業、漁業などは、潮の満干など旧暦の方が具合が良いことが多いようです。
 相当理屈っぽくなりましたが、これも昔の人の知恵です。一度、旧暦のことを考えてもよいと思います。
 ただ暦は非常に複雑で、奈良時代に中国から入ってから、暦は時代で少しずつ変わっています。今の暦が続いていたのではありませんが、お月様の満ち欠けを基準にしていることは同じです。世界では“イスラム暦”があったり、国によって暦が違うことがあります。今、先進国が使う太陽暦が総てではありません。
 日本では、明治になって新暦を国の暦にしました。そのため、それ以前、例えば“忠臣蔵”の討ち入り12月14日は大雪でした。12月半ばで大雪とは、今の東京ではあまりありません。旧暦では、1月の半ば過ぎですから大雪はあり得ます。
 1860年3月3日の朝の“桜田門外の変”井伊大老の暗殺の朝も雪でした。今の暦ですと4月になり、珍しいことで、当時の記録にもそのように記されています。
 旧暦が現在の国民の休日に残っているのが“建国の日”です。1872年(明治5年)神武天皇即位の年の1月1日を建国の日と決めたのです。西暦ではなく日本書紀を参考に660年古い皇紀を作り、明治5年の2月21日が旧暦の1月1日だったのでその日を建国の日とし、今でもそのまま残っているのです。
 日本史や中国の歴史を読むとき、その時代の暦が旧暦であるということを理解して下さい。
※注:暦、旧暦の仕組みは複雑で私にも難しく誤りがあるかもしれません。大略はこのような仕組みですが、誤りがあった場合はお許しください。
※注:春分直後の日曜日の後の満月の日が、キリスト教の復活祭(イースター)です。月とキリスト教も関係があるのです。

●わが国の暦・付属資料
太陽暦
 原始時代から、人間は太陽の動きを暦に使っていたと考えられます。これを体系化したのが、古代ローマのユリウス、カエザルで、紀元前46年頃ギリシャの天文学者ソシゲネスに改正させました。365日6時間をもって1年とし、4年ごとに1日の閏を置きます。この暦は現在でもギリシャ正教圏で使用されており、ロシアでは革命前1918年まで正式に使われ、1905年日露戦争当時、12日若い暦でした。今でも民間では一部使われているようです。
 1582年、ローマ教皇グレゴリウス三世がユリウス暦の400年に閏を置くのを97回とし、太陽の位置と暦日を調節しました。これが現在の太陽暦で、大部分の国で使われています。2月に閏がなかったのは、最近では1900年でした。次回は西暦2100年で、現在の我々には関係ありません。
太陰暦
 月の満ち欠けが29日、30日周期なので、これも太陽同様に原始時代から暦として使われていたのは間違いないことです。
 この満ち欠けを1ヵ月とし、12ヵ月で1年とするのが太陰暦で、1年が10日ほど太陽暦より短い暦です。これを使っているのがイスラム圏で、イスラム暦は長い間に季節と無関係になってしまいました。
 季節と調和させたのが太陰太陽暦で、両者を折衷したものです。1年に10日ほど短い年を19年に7回閏月を設け、平均させるものです。日本の旧暦、中国の暦、ユダヤ暦などがこれに当たります。
 どうも暦には宗教が非常に関係しているようです。
 これで太陽暦、太陰暦の歴史が理解できると思います。

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きくいも

 

 芋は遺物や、記録にあまり残っていません。形の細長いものから、手のひらを大きくしたような型の”トロロイモ”粘りの強い山芋、南アジアで”ヤムイモ”といわれ、わが国の里山で”ジネンジョ”が掘れるので私は在来種もあると思っていたら、外来種とのこと、”ヤマノイモ科”の植物です。

 一方、”サトイモ”山芋より身近で、古くからエネルギー源として戦前まで非常に尊重されていました。その証拠、現在でも正月などの祝い膳には欠かせない伝統食の一ツです。

南方系統の”サトイモ科”の”タロイモ”の仲間、同じ科に”コンニャクイモ””ミズバショウ”みなさん不思議に思うかも知れませんが五月の節句にかざる”ショウブ”(花ショウブの葉ではありません)みんな仲間です。

 暖地に野生の里芋がありますが有毒なものもあり注意したほうが良いと思います。

 以上の二ツは東南アジアや南の島で主食にもなっています。

 約五百年前、中米メキシコ原産の”サツマイモ”ヒルガオ科が中国から、南米アンデス原産の”ジャガイモ”(ナス科)がヨーロッパ人によりもたらされ、穀類の不作のとき人々を救います。

 以上の四種類、成分の主なもの澱粉、ぶどう糖からなる多糖種です。”ジャガイモ”は澱粉の原料としても重要です。

 ”キクイモ”キク科、アメリカ原産、江戸中期に入ってきます。芋といいますが、四種類の芋とは似て非なるものです。

 高さ二メートル、茎と葉に毛が密生、さわるとざらつき、花は黄色、秋に咲き”ヒメヒマワリ”に似て先端がやや劣っています。秋、地下にショウガの形に似た大きな塊茎ができます。欧米や、中国では料理の材料に使い好まれます。

 入ってきた当時は、全国に拡く栽培され、食用にし、やせ地でも収穫が多く、岐阜では一斗芋といって尊重されたようです。しかし、嗜好にあわず、次第に作らなくなり野性化、太平洋戦の後の食糧難のとき復活しますが、続かず、秋、都会の空地で黄色の花を咲かせみなさんも見ておられると思います。

 何故捨てられたのか。成分が澱粉でなく、果糖の集合体の多糖類イヌリンだからで、大量に含んでいます。果糖の原料や、発酵させ、アルコール、アセトン、ブタノールの原料になります。キク科の”ゴボウ””ダリヤ”の根にもイヌリンが含まれています。山の温泉町の土産や、すし屋さんの海苔巻の中の山ごぼうの味噌漬、ヤマゴボウ科ではなく、山里の畑で作られる”モリアザミ”キク科の根で、やはりイヌリンを含みます。イヌリンは澱粉と違い、煮たり蒸したりする料理に不向きなのでしょう・

 現在、長野県下伊那郡泰阜(やすおか)村で、従来の畑だけで不足、次々休耕する畑の一部も転換し、この”キクイモ”を栽培し、ミソ漬け、タマリ漬、シソ漬の原料として供給しています。

この漬物、シャキシャキした歯ざわりが、山ごぼうの漬物と同じようだそうです。

 発酵させるとアルコールが出来るので、戦争末期、軍が北海道で作り始めたこともあったとのこと、今では野生化しています。

 現在、耕作放棄地に困っています。ヤセ地でも肥料も余り必要としない雑草化する丈夫なこの”キクイモ”を放棄地で栽培、塊茎をアルコールの原料にしたらどうでしょうか。休耕地が一変して”ヒメヒマワリ”にみたされたような黄色の花畑に変わり、地球の温暖化防止に役立つのです。

 ただ、工場操業、集荷問題、非常に困難が多く、実現性には疑問もあり、私の素人の浅知恵かも知れません。

 

注)ヤマゴボウ科の種類は殆ど毒をもっています。山ごぼうの味噌漬は”モリアザミ”であることを忘れないで下さい。


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お日さま

 

 テレビで初日出や、ご来光を特に尊ぶのは日本人と伝えていたのをみて、三十年ほど前の大晦日のことを思い出しました。

 単身赴任中、東海道線のB寝台で帰京中、同じボックスにいた職場の仲間らしい若い女性達に浜松を過ぎたあたりで「おじさん、初日の出」と大声で起こされました。丁度、太平洋に朝日が昇る瞬間でした。彼女達は静岡でおりて行きました。

 太陽を尊ぶのは人類全部と思っていますし、古代インカの遺跡でも推定できます。現在の日本人は、一般的に宗教に無関心です。昔は、自然のもの、森、山、樹木などを神の宿る場所として拝んでいたようで、それらを祭っている神社は今も残っています。

 農耕民族は多数教、牧畜民族は一神教が多いといわれていますが、農耕民族の日本にはあてはまるようです。わが国は新年に門松をたてます。

 キリスト教は、宗教がエルサレム地方で生まれたにも拘わらず、クリスマス、北欧のように雪があり樅の木を飾り、北欧的です。いずれも常緑の針葉樹、どうも冬至で力を失った太陽の力を呼び戻す祈りの変形と考えてもよいのかもしれません。

 わが国で太陽を尊ぶことは、いつ頃から生まれたのか、人間ですから人類共通の太陽信仰的なものはあるでしょうが、弥生時代の後期銅鐸は埋められたりしました。古事記や、言い伝えに銅鐸のことはありません。最近になって三世紀の中頃に存在したと時代特定された邪馬台国の女王、卑弥呼は、魏から銅鐸百枚を買っており、後漢書には、それ以前、北九州の豪族が、後漢から銅鐸を贈られています。

 奈良県桜井市にある箸墓古墳や、巨大な建物跡が見つかった纏向遺跡は、三世紀中頃の説が有力になって来ました。

 その周辺部、銅鐸は出土せず、銅鏡が多く出土します。

 鏡は、太陽の光を反射します。銅鐸の消滅と銅鏡の出現は太陽の光で人々を従えた首長が現れ、古い銅鐸文化を滅ぼしたとも考えられます。

 桜井市は、室生寺を経由、すでに伊勢に行かれる場所です。四世紀初頭、宗神、重仁天皇あたりから、天皇の未婚の娘と伊勢神宮の

斎宮(イツキノミヤ)として太陽神、天照大神を祭るようになったと古事記にあります。伊勢、地形的に海に面し、朝日の昇るのを拝める場所です。

 地形的に、伊勢に似ている宮崎県日向国にも天孫降臨神話に高千穂の峯があり、神聖な場所だったようです。

 沖縄でも、知念半島が、伊勢、日向と共通し、東を望める場所で、知念杜域(チネンモリグスク)や、斉場御嶽(セイハーウタキ)があり神聖な場所です。

 たづ、日本でも沖縄でも太陽は中心ですが、太陽のみが神でなく、自然そのものが神として祭られる例が多いようです。

 日本の国旗の日の丸は、太陽を表していると思いますが、室町時代には日本の船に、日本の貿易船の印として、日の丸に似たものを揚げていたようです。

 その影響もあるかもしれませんが、日本の子供の絵、昼の太陽でも"赤"です。外国の子供の絵は、昼間の太陽は、橙色が黄色が多いようです。

 それはさておいて、庶民は、現在でも、太陽を"お日さま"と呼び、初日の出や、山では、ご来光を手を合わせて拝みます。


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蕪と大根

 

 江戸時代の中期、伊勢神宮参りが全国的に流行しました。その旅の途中、すぐれた農作物を見つけた農民のなかに、種を手に入れ、持ち帰り、自分の田畑に栽培してみる人も出て来ました。土地や気候などが変わったこともあり、偶然、突然変異が起こり、あたらしい品種が生まれた形跡があります。

 典型的な例が"野沢菜"です。信濃の人が"聖護院ダイコン"ではなく、"聖護院カブラ"の種を手に入れて、野沢地区で栽培してみました。収穫してみると、葉だけ立派で「蕪」はありませんでした。しかし葉はおいしく、漬物に最適で、現在に残っている有名な「野沢菜漬」が誕生したと伝わっています。

「米」「麦」の穀類も含まれたと思いますが、農事試験場で明治以降、統一して改良したためでしょう。今は各地のばらばらな品種ではありません。「菜類」は例外で、例えば秩父の「シャクシ菜」のように、地方特産のものが残っています。この頃できたものが多かったと思います。

 いきさつは不明ですが、特別に長い"守口ダイコン"球形で大きい"桜島ダイコン"「大根」の種類は数えきれません。

 今は、すっかり都市化しましたが、わが母校の場所も含め"練馬地区"は沢庵漬にむいている"練馬ダイコン"の一大産地でした。

 調理後、放置しても食あたりしないため、当たり役のない下手な役者を"大根役者"といった為、役者は、練馬に住むのを嫌ったとのこと、ご存じの方も多いと思います。

 「蕪」と「大根」の違いを外見だけで区別してみて下さい。

 長いのが「大根」、球形なのが「蕪」と言えますが、"桜島ダイコン""聖護院ダイコン"家庭菜園でおなじみの"ラディッシュ、二十日ダイコン"は球形です。

 一方「蕪」は、三十センチの根のある滋賀の日野町特産"日野菜""日野菜漬"として関西で有名ですが、「蕪」です。盛岡の遠野、暮坪地区の"暮坪カブ"太く長い根があります。長い根のある"品川カブ"辛うじて東京に江戸野菜として残っています。まだ全国を探せば、長い根のある「蕪」はあるでしょう。

 「蕪」と「根」、"アブラナ科"です。「蕪」は"アブラナ属"白菜と同じです。葉の切れこみは「大根」より浅く、花の色は普通、黄色です。「大根」、"ダイコン属"花の色は、白か紫が多いようです。しかし、葉の形や、花の色は、土の性質や天候で変わることも多いため、これで区別してよいか、疑問も残ります。"アブラナ属"の「蕪」の葉はくせがなく、食味はよいと思います。「大根」の葉はくせがありますが、塩漬や糠漬は、おいしく食べられますし、炒めても苦味はあっても好きな人は食べます。要は人の好みです。

 根に辛味のあるのは「大根」に多いと思いますが、育つ条件でも変わります。

 こうなると科学的に分析し、生物により異なる染色体を調べることです。「蕪」は、染色体の数は二十本、「大根」は十八で、はっきり区別がつきます。

 「蕪」を名前にした俳人がいます。"天王寺カブラ"の産地の村に住んでいたので、俳号を"蕪村"とした、与謝蕪村です。

 共通していること、両種とも日本の在来種ではありません。遥か昔、大陸から入って来た野菜で、すっかり根づき、日本人により長い間、改良をかさね、今になっています。


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アオマツムシ

 

 秋の気配を感じる頃、賑やかな街でも"リーン"という虫の音(ネ)が聞こえて来ます。五十年前はどうだったか?

"セアカグモ"という毒蜘蛛が各地で見つかっています。海外から入る荷物と一緒に入って来たのです。

 意外に思われる方が多いでしょうが"モンシロチョウ"、大昔、菜の花科の野菜が大陸から渡米したとき、葉について入って来たようです。在来種は、よく似た"スジクロチョウ"で、菜の花の野草で育ち、野菜には卵を生みません。野菜の大半は外来種、ですから特に都会で見かける"モンシロチョウ"の大半は"スジクロチョウ"です。

 昆虫は案外移動します。暖かくなると"アサギマダラ"という蝶は、沖縄から北上、北海道の南端まで行く例もあり、涼しくなると逆に南下します。"アカトンボ"も里で生まれ、夏は山で過ごし秋には真っ赤になって里に戻って産卵します。小さな体でも結構、旅をしています。

 一九三五年頃、それまでは、一メートル程の木の繁みで、一センチにもならない茶色の"クサヒバリ""カンタン"が繊細な音色で鳴いていたのに、突然、秋に"リーン"に大きく鳴く虫声が高い木の上から聞こえるようになりました。捕まえてみると、三センチ弱の少し太った細長い緑色の"アオマツムシ"でした。その頃、東京近郊に殖え始めたようで、新聞にも、そんな記事があったと思います。

 後日、詳しく調べてみると、初音(ハツネ)は、赤坂の大榎で、一八九八年、一九一五年に採集して"アオイマツムシ"の日本名がつきました。

 拡まったのは、大正期、中国の山東半島がら輸入した植木について来たのが素因になったようで、植物について、日本に入ったのは、"モンシロチョウ"型です。それから"アオマツムシ"が急速に全国に拡がって行きます。当時は郊外には"スズムシ""マツムシ"がいましたし、都会でも"コオロギ"の仲間がいて、家の中ででも"コオロギ"が秋になると、それらの虫の音(ネ)が季節を感じさせてくれました。最近の都会は、コンクリートジャングル、すっかり虫は減り、極端に言えば、家の中の虫は、"ゴキブリ"だけになってしまいました。虫にも好かれない都会になりました。

 一体"アオマツムシ"はどうなったか、戦前は全国で鳴いていた、この虫、都会では戦後、鳴く音(ネ)は聞かれなくなりました。

 アメリカの空襲で都会の大半全滅、木も焼かれ、この虫も焼け死んでしまいました。

 その後、復興が進んで行きます。庭の木や街路樹を、この虫の生き残っている地方から運んで植えて行きます。"アオマツムシ"は都会で復活、次第に殖えて行きます。

 しかし、この虫の幸は続きません。再び事件が起きます。

 一九六〇年ぐらいからでしょう。"アメリカシロヒトリ"という蛾が侵入して来て、年毎に増え、街路樹はじめ、落葉樹の葉を食いあらす、社会問題が、都市部で起こります。当然、全国的に、この蛾の駆除、大量の殺虫剤を散布、この蛾の大量発生を食いとめました。しかし、巻き添えをくったのは、"アオマツムシ"で、この虫も殺され、その音(ネ)は都会から消えました。

 当時は、区画整理が盛んで、大量の街路樹が必要となって来ました。再び、この虫の生き残る地方から、主として街路樹を運び植えます。このため、都市部の街路樹に"アオマツムシ"が住みつくようになり、今も、その状況は続いています。都会の人は、上から聞こえる、この虫の音色(ネイロ)で秋を感じるようになりました。

"アオマツムシ"のたどって道、日本の都会人の経験と重なり、戦争の悲惨さを鳴き声で知らせてくれています。


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散歩の楽しみ

 

 私は郊外のブロック塀禁止、三階建、共同住宅、商店など認められない地区に住んでいます。

 買物や散歩の途中、よそのお宅の庭が目に入ってきます。季節ごとに花壇や、自然に育った草花を楽しむことができます。

 十年ほど前でしょうか。五月なかば"タンポポ"に似た黄色い花が二十センチの長い茎の上に一輪ずつ咲いてい、一株に花が数輪ありました。その後、年ごとにこの花を見かけることが多くなるので調べてみると、一九三九年、六甲山に咲いているのを見つけたヨーロッパ原産の"ブタナ"であることがわかりました。その後は、そんなに殖えていません。

"タンポポ"、日本在来種、年一回、春咲き他花受粉で種ができます。それに反し、明治初め日本に入ってきた"西洋タンポポ"、自家受粉でも種ができるうえ、春咲きは多いですが、他の季節にも咲くため繁殖力が強い性質があります。これでは在来種は勝てず、現在、都市近郊では"日本タンポポ"、殆ど見られなくなりました。

 七年ほど前の四月末、街路樹の下などに"ケシ"に似た小さなオレンジ色の花が咲いているのが見かけられるようになりました。綺麗なので庭に植える方も多くなりました。街路樹の下に咲くくらいですから都内でも最近、多くなったと思います。

 この花、一九七三年、東京の世田谷で最初にみつけられた"ナガミヒナゲシ"でした。"ケシ"の実が球状なのに対し、細長い実なので"ナガミ"と名づけられたのです。ヨーロッパ原産の雑草で、一時期アメリカで園芸種になったこともあるようです。テレビで各地の景色が出るとき、この花の写る画面もみられるため、全国的に拡がっています。これらは、荷物などに種がついてきて日本に入った、一種の侵略者でしょう。

 五年ほど前の八月、沖縄原産の"鉄砲百合"に似て、少し大ぶりで、花も少し濁った白色の百合を、庭や、生垣の間でみかけるようになり、次の年、更に殖えて行きました。白色のため、種類がわからず、専門家を探して電話で聞いてみました。すぐ大正時代に観賞用に台湾からもってきた"高砂百合"とわかりましたが、百合は球根で殖やすと思いこんでいたので、急速に拡まるのは不思議だと、聞いてみると、笑われてしまいました。山百合など、野生の百合は全部、種で殖えてゆくとのこと、考えれば当たり前です。

 そこで"高砂百合"秋まで観察を続けると、七センチほどの〓ができ、中に種が沢山つまり、十一月になると風で散って行くのを確認しました。

 "高砂百合"を見つけた一年後の七月小ぶりのオレンジ色の百合が目につくようになり、よそのお宅の庭に、自然に生えている状況が多くなってきました。今度は種類はすぐわかりました。明治期に、食用にする百合根の栽培用と観賞用を兼ね、中国から輸入した"鬼百合"でした。この百合、殖える方法が特殊で、大部分は、葉の根もとに、山芋のムカゴのような七ミリほどの球状の塊ができ、これが散らばって殖えて行くのです。この品種は、染色体、三十六です。割合は少ないですが、種で殖える品種もあります。染色体、二十四です。

 この種のあるのを今年(一九十一年)九月、公園の片隅の鬼百合で三株、みつけました。五センチ程の〓ができていました。自分で、みつけたので、散歩の楽しみが倍加しました。

 全く、私の独断です。この鬼百合、基本の染色体数、一倍体は十二本、中国では雑草に近い形かも知れませんが、現在も存在していると夢みて一人で楽しんでいます。

 みなさんにも散歩を おすすめします。


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