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歳 時 記

中学1回生 藤本 義男

1月 「竹」

 会社などの門松には、青竹が中心に使われ、松と調和して見事に見えます。竹は冬も枯れず、竹の子が良く伸びる、こんなことで松、梅とならんで、おめでたい植物となったのだと思います。
 竹や笹は石器時代から使われていましたが、プラスチック製品の出回るごく最近まで、わが国の家庭用品の材料として欠くことのできないものでした。「ザル」、桶の「タガ」、数えたらきりがありません。
 私たちの年代では、竹皮に包んだ「おむすび」は、遠足の弁当の思い出としてなつかしく残っております。  竹と笹、どこで区別するのでしょうか。ご存じの方も多いと思います。丈の高いのが竹、低いのが笹というのが一般ですが、正しくは、竹の子の皮が成長しても残っているのが笹です。ですから川ばたに多い丈の高い「メダケ」は皮が残るので笹、丈が低くても皮の残らない「オカメザサ」は竹です。
 竹や笹は、東部アジアに多く、ヨーロッパ、北米にはありません。
 竹、笹の子は殆ど食用になります。「竹の子」というと「モウソウ」の「竹の子」を思い浮かべますが、「モウソウ」は今から260年ほど前に島津藩が鹿児島に沖縄(中国説もあり)から本土に移入した比較的新しい竹です。「モウソウ」に次いで大きい「マダケ」は在来種といわれ、竹細工に欠かせない竹です。
 わが国の北部では、根まがり竹(笹の一種)の子を「竹の子」として賞味しています。

2月 すずしろ

 春の七草である、せり、なずな(ペンペン草)、ごきょう(ハハコ草)、はこべら(ハコベ)、ほとけのざ、すずな(蕪)、すずしろ(大根)、この七草も、新暦のいまは野草として採集が難しく、スーパーで詰め合わせで売られるようになりました。
 八百屋の店先のにある野菜の中に、このごろ中国野菜も出回っていますが、普通はほとんど我が国古来のものと思いがちです。ところが春の七草に入っている、カブや大根は、地中海方面が原産地ですし、胡瓜、ナスは勿論のこと、白菜も中国から入って来たものです。日本在来のものとなると、ミツバ、フキなど少数のものに限られてしまいます。
 万葉集や百人一首につみ草の和歌がよく出てきますが、このつみ草は遊びではなく、野菜をとる重要な仕事だったのです。
 大根は大昔に渡来したものですが、今では改良が進んで百者類以上の品種があります。(外国の学者は品種の多さに驚くそうです。)平安時代にはオオネと言われてはいましだが、大仏殿の大釘とか、美人の腕にたとえられ、細くスマートだったようです。
 大根や人参の細切りを千六本と言います。ご存知の方も多いと思いますが、これはセンローフ(線切り大根の中国語…ローフは大根)を禅僧が伝えたものがなまって千六本になったと言われています。
 とはあれ、千六本の大根の入った七草がゆを今年食べた人はどのくらいいるでしょうか。古い習慣がなくなって行くのは淋しい気がします。

2月 「杉」

 「杉」。台湾の中高度山中や、ヒマラヤ地方に少し生えているようですが、わが国では、縄文杉で知られる南の屋久島から、北は秋田地方まで古くから全国に自生しており、日本固有の樹木といっていいと思います。
 400年ほど前に来日したスペインのドン・ロドリゴは「日本に沢山の都市があり、広く、大きく清潔で、人口20万人の都市も多く、京都は80万人を超えている」、と立派さと清潔さに驚いています。
 当時のヨーロッパは、人の糞尿の処理が困難で、400年前のパリでは、名高いルーブルの中庭や階段まで便がたまり、悪臭がたちこめていたと伝えられ、ベルサイユ宮殿の庭の植え込みは、紳士、淑女のトイレであった、ともいわれています。  わが国の「杉」は、簡単に割れ、板取りができます。これを「竹」と組み合わせると、軽くて液体も運べる桶が作れます。この桶が糞尿を都市から農村の田や畑に運ぶ道具となりました。
 ヨーロッパでもウイスキーの貯蔵で知られる樫の木に鉄のたがをはめた樽はありましたが、樫は簡単に板取りができないので、価格も高く、重く、糞尿の運搬には向きませんでした。ヨーロッパでは、簡単に割れる「杉」のような木はなく、家は板を使わず、主として丸太を組み合わせたものになり、さらに石造りになっていきます。そのため都市の拡大や衛生は、わが国が数段上となっていたようです。
 反面、わが国は下水道の発達が遅れて、戦前まで糞尿処理を杉桶を使った汲み取りにたより、都市環境の遅れが目立ちました。「杉」は、よく割れる性質があり、石器でも板が作れます。有名な静岡の登呂遺跡の水田用水路に、らくに作れる杉板が使われた訳はこれです。
 明治になって「初等教育」が義務化された時、簡単に板ができる「杉」で、山村にいたるまで学校の校舎が建てられました。電気が使われるようになると電柱に、まっすぐな杉柱が使用され、欧米に追いつけました。
 工作具の発達していない大昔から、この簡単に割れ、厚板から薄板までとれる「杉」が、いろいろな用途に利用されてきました。舟も、家も、屋根のコケラ、酒樽など桶も、みんな「杉」が主役です。ヨーロッパの樫のたぐいは、曲がっていて、こうはいきません。
 わが国が、経済大国として繁栄し、教育レベルが高くなったのは「杉」のおかげ、といってよいぐらいです。  考えてみると、日本文化は一面から見ると「杉」の文化でした。
 現在は、杉花粉症に悩まされている人たちが多い時代となりましたが、こんな歴史があったと、少しなぐさめにして下さい。

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3月 もんしろちょう

 毎年、二月半ばには桜の開花予想が発表され、桜前線北上が新聞紙上をにぎわします。
 同じように「もんしろちょう」前線も、黒潮に面した九州、四国、房総半島の太平洋側から、日本海、東北にかけ上がって行きます。
 子供の頃から「ちょうちょう」の童謡を聞くと思い出すのが、「もんしろちょう」だと思います。親しまれているこの虫も、どうも四百年ほど昔に、中国大陸から移入した野菜について入って来た外来者のようです。わが国在来のこの種のちょうは、「すじくろちょう」です。飛んでいると区別がつきません。「すじくろちょう」は羽に紋がなく黒いすじだけで、捕らえるとちょっとイヤな臭いがします。
「もんしろちょう」の幼虫は菜の花の仲間の栽培作物を食べますが、「すじくろちょう」は菜の花の仲間の野草(イヌガラシなど)で育ちます。
「イソミズゾウ虫」が米国から入り数年のうちに広まったように、昔から昆虫は外国からよく入ってきたようです(四十年前の「アメリカシロヒトリ」も有名)。入って来るばかりでなく、今から七十年ほど前に「マメコガネ」(小指の爪ほどのコガネ虫、青緑色の地色で銅色の光沢)が米国にわたり、豆類を中心に大被害を与え、折からの排日気運もあり「ジャパニーズ・ビートル」といわれ、非常に嫌われました。こうなれば、お互いっこのようなものです。
 さて在来種の「すじくろちょう」は「もんしろちょう」に追われ、今では影がうすいようです。
 植物や昆虫の世界にも、侵入者とそれを迎えうつものとの間で、われわれの知らないところで深刻な争いが続いているのです。

3月 「白い花の咲く頃」

 卯の花の匂う垣根に、
  ほととぎす、早きも鳴きて……
  しのびねもらす 夏はきぬ
 この小学唱歌は、私の年代には、なつかしい歌です。
  五月から六月にかけて、「ウツギ」がむれるように白い卯の花を咲かせます。“夏来る”です。
 丁度、この頃、雑木林では「エゴ」の木が小さな白いシャンデリアのような花をひっそりつけています。地味で,地面に白い花が落ちていて気がつく、可憐な花で、私にとっては好きな花の一つですが、あまり気にかけている方は少ないのではないかと思います。車窓から遠くの林を見ると「ミヅキ」の花が樹にかぶさって白くものように咲いています。
 雑木林の花は派手さがなく、見過ごすことが多いものですが、梅雨を迎えようとする初夏、愁いのこもった曇り空、うっとうしいなかで樹木の白い花は、なかなか緑に映えるものです。「ナンテン」、「クチナシ」、この時期に咲く花は、白い花が多いようです。
 今から45年ほど前、NHKのラジオ歌謡で岡本敦夫が、『白い花の咲く頃』を歌っていました。
  白い花が咲いてた
  故郷の遠い夢の日
  さよなら、と言ったら
  だまってうつむいてた
  お下げ髪……
 私の大好きな歌ですが、この季節はいつ……と考えて思いついたのが、この季節です。やがて梅雨、曇り日の多い頃、不思議に木々は緑に映える白い花を咲かせる……。
「悲しかったあの時の、あの白い花だよ。」何となくぴったりという気がします。
 早春は黄色の花を咲かせる木が多く咲く花の色にも、何か自然の仕組みがあるのかも知れません。
 卯の花が盛りを過ぎる頃、本格的に梅雨に入ります。
「エゴ」のシャンデリアから小雨のしずくがたれ、卯の花は地面に落ちて冷たい雨に濡れます。この頃を「卯の花腐し」と昔の人は言っていました。
 まだ武蔵丘のまわりには、武蔵野の自然が残っています。雑木林の地味な花にも、少し目を向けてみましょう。

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4月 たんぽぽ

 子供の頃、まるい綿毛のついた「たんぽぽ」に息を吹きかけて遊んだ思い出をもっている人も多いと思います。
 北海道の初夏に旅行をすると草原の「たんぽぽ」の黄色がキレイなこと、思わず一株もって帰って庭に植えてみると、翌年そこらに咲いているものと変わりません。そのほとんどが「セイヨウタンポポ」の筈です。
「たんぽぽ」にも種類があるのかと不思議に思われる方がおられると思いますが、関西・四国・九州では主流は「シロバナタンポポ」だったはずです。「たんぽぽ」は黄色い、というのは「エゾタンポポ」、「カントウタンポポ」などをよく見かけるからです。ところが明治以降、牧草の種子と一緒に「セイヨウタンポポ」が入って来ました。そして今や日本全国、「セイヨウタンポポ」の方が幅をきかせています。植物の世界にも戦争はあるようです。
 ところで「たんぽぽ」は、葉は山菜としておひたしその他に食べられますし、根は苦みがあり干してから煎りますとコーヒーの代用品ができます。「たんぽぽ」の根は鎮静作用がありますので、コーヒーとはまた違った目的にも利用することが出来ます。
 北海道の草花は一般に色が鮮やかです。「たんぽぽ」も例外でなく、「パンジー」でも「チュウリップ」でも、みんな内地より一段キレイです。これは夜と昼の温度差が大きいため色が鮮やかになるといわれています。
 最後に東京周辺の「たんぽぽ」は多分「カントウタンポポ」と「セイヨウタンポポ」が混じって咲いているはずです。たまには名もない雑草にも目を向けて下さい。

5月 菖蒲

 五月五日、端午の節句です。三月三日の雛祭りは女の子の節句ですが、子供の日に男の子の日だけが選ばれたのなぜなのか、どうも男女同権に反すると不思議に思います。
 五月はじめのゴールデン・ウイークは、すっかり日本の習慣に根づきました。季節も初夏、最高です。
 端午の節句には昔から「ショウブ」をかざり、風呂も「ショウブ湯」にして健康になるように祈りました。
 御存知の方が多いとは思いますが、この「ショウブ」、いろいろ混同されている植物です。
 まず端午の節句に使う「ショウブ」は「サトイモ」の仲間で、葉に香りがあり、剣のようにとがって立派ですが、花は貧弱で、「ハナショウブ」とは全然違った種類です。
「ハナショウブ」は「アヤメ」、「カキツバタ」と同じ「アヤメ」の仲間で、最近、ヨーロッパから来た球根の「アイリス」の種類が沢山くわわり、お互いに花が似ているため、混同して訳が分からなくなっております。
 いずれ「アヤメ」か「カキツバタ」……と昔からいわれているように、区別がつきにくいものの代表です。
 まず、「ハナショウブ」、日本在来の「ノハナショウブ」から、特に江戸時代、中後期に改良されたもので、六月に咲き、水の多いところでも、また一般の庭などにも育ちます。
「アヤメ」は五月に咲きますが、湿気の多いところにはむきません。
「カキツバタ」、六月に咲き、水辺を好みます。
 この三つの区別は、「ハナショウブ」、葉の幅は、2センチぐらいで、真ん中に太い筋が通っています。「アヤメ」は葉の幅、1センチぐらい、「カキツバタ」、葉の幅、3センチ以上、この2つは、葉の真ん中に筋がありません。
 花の咲く高さを低い順にならべると、「カキツバタ」、葉の先より低く、「アヤメ」、葉の高さと同じくらい、「ハナショウブ」、葉の先よりも高く咲きます。
「アヤメ」の花びらのもとに網状の斑(あやめ)がありますが、「ハナショウブ」「カキツバタ」には、斑がありません。  花の茎は「ハナショウブ」はつまっていますが、ほかの二種類は、花の茎は中空になっています。
 潮来(イタコ)出島の「マコモ」の中に「アヤメ」咲くとはしおらしい。
という歌がありますが、「アヤメ」は乾いたところにしか咲かないので「ハナショウブ」か「カキツバタ」の誤りだと思います。
 追分馬子唄
 浅間根こしの すすきの中に
   あやめ咲くとは しおらしや
 信濃の農民は自然を知っていました。

6月 お茶

 “夏も近づく八十八夜" 新茶は、季節を感じさせる日本の味です。
 お茶は現在、すっかり日常生活にとけこんでおりますが、日本に入ってきたのは千二百年ほど前、聖武天皇の頃で、種と製茶法が中国から伝えられ、九州の福岡近辺や,佐賀の背振山で栽培されたと歴史に残っています。
 その後、お寺の僧侶や身分の高い人々が飲み、秀吉の頃はいわゆる「茶の湯」として特殊のものでした。庶民が飲むようになったのは江戸時代ですが、それでも農民の生活を規定した「慶安御触書」(おふれがき)に“お茶を沢山飲むような女房は離縁しろ"とあり、ぜいたくな物だったのです。
 一般に広まったのは、忠臣蔵で有名な元禄期に入ってからのようです。最近は「ウーロン茶」が好まれていますが、ウーロン茶は、紅茶と緑茶の中間的なものです。
 緑茶は、葉を摘んですぐ蒸して製造しますが、紅茶は、茶の葉を葉の中の酵素で発酵させて作り、ウーロン茶は発酵を中間でとめたものです。(緑茶には、したがって葉緑素やビタミンCなど栄養分が多く入っています。)
 紅茶は四百年ほど前、インドから茶をヨローッパに送った時、船中で発酵し偶然できたとの説もあります。
 お茶は飲むものと考えていますが、タイ国の北部、中国の雲南省ビルマの奥地などでは、茶の葉を竹筒やかめに詰め込んで、土に埋め十分に発酵させて漬物として食べています。モンゴルなどでは、干した茶を固めて板にした緑磚(てん)茶をけずってバターなど入れて飲む習慣もあります。
 こんなことを思いあわせると、大昔はお茶は飲み物でなく、食べるものだったのかも知れません。
 わが国でも高知県土佐の山地では、茶の葉を蒸してそれを屋内の板の間に平積みして五日、発酵が進みカビが生えたものを桶に十日ばかり漬け、一寸角に刻んで天日で乾燥させた碁石茶があります。ですから今の緑茶は聖武天皇の頃入ったと言われていますが、わが国にも山茶の類が自生しているので、縄文時代後期焼き畑文化の伝来とともに食べ物として利用した可能性も推定されます。
 飛行機でスチュワーデスが、機内で飲み物を出すとき、「紅茶ですか、日本茶ですか。」と聞きますが、緑茶をわざわざ“日本茶"と呼ぶのに何となく抵抗を感じるのは私だけでしょうか。米を中心とした「和食」が、若い世代からだんだん離れるにつれて、お茶をことさら日本茶と呼ぶような時代になってきました。
 日本人の日常生活から、緑茶の影が次第に薄くなっていくのではないかと危惧しているこの頃です。
(茶は、椿や山茶花の仲間です。ですから茶の木は、二~三メートルの高さに育ちます。いま私達は、茶の木というと茶畑の丸く刈り込んだ木を思いうかべますが、これは人間が葉を摘みやすいように、人工的に栽培しているからです。現在わが国では、二~三メートルの茶の木は殆ど見ることはできません。)

6月 あじさい

梅雨になると「あじさい」が雨にぬれて一段と趣を感じさせます。
 「あじさい」、この花は、昔からあった花で、伊豆半島などに野生している「がくあじさい」-「あじさい」のように球形の花でなく、「あじさい」に似た花が周りにあり、中心は、ボツボツの花がついているもの-から変化してできたといわれ、平安時代から鑑賞されていたようです。
 「あじさい」の学名は、幕末に長崎に来たシーボルトがハイドランゲア・オタクサとつけました。
 シーボルトは、以前NHKの大河ドラマで放映された「花神」の主人公、村田蔵六の愛人で、日本最初の女医、おいねのお父さんです。シーボルトは奥さんをよほど愛していたらしく奥さんの名前のおたきを「あじさい」の学名にしたのです。
 私が子供の頃、小鳥屋に「オーム」がいると「おたけさん、お早よう」と声をかけました。何故おたけさんなのか疑いもせず、呼びかけていました。
 シーボルトは「オーム」を飼っていて、奥さんの名前を覚えさせ「おたきさん、お早よう」と鳴かせたそうです。近所の人がそれを聞き「オーム」に「おたきさん」と呼びかけ、人から伝わっていくうちに、おたきが、おたけに変わって伝わって行ったのが真相のようです。
 最近、花屋さんで西洋あじさいが鉢植えで売られています。これは今から二百年ほど前に「あじさい」がヨーロッパに持ち出され、改良されて里帰りしたものです。
 「あじさい」は、れっきとして日本特産の花です。梅雨には雨にぬれた「あじさい」が似合います。
“最近の子供は、小鳥屋で「オーム」に何と呼びかけているのでしょうか。”
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7月 「とかげ」と「かまきり」

 「かまきり」、虫を捕まえて食べる昆虫ですね。
「とかげ」、金属色のかがやきのある一般に嫌われる蛇の仲間ですね。この二つは全く縁がありませんが実は……。
 埼玉の西部では明治半ばまで「とかげ」を「カガミッチョ」。「かまきり」を「カマギッチョ」と呼んでいました。この辺でも、そのようにいっていたはずで、おじいさん、おばあさんに聞かれれば、「カガミッチョ」、「カマギッチョ」という名前は知っておられると思います。
 明治になって小学校教育が普及して全国共通に「かまきり」、「とかげ」という名前となりました。
「カガミッチョ」、「カマギッチョ」。似ていますね。そこで子供から新しい名前を聞いた大人は、「カガミッチョ」が「かまきり」、「カマギッチョ」が「とかげ」となったと、勘違いしてしまいました。(私も書いていてわからなくなってきます。)
 そこで虫の「かまきり」を「とかげ」、蛇の仲間の「とかげ」を「かまきり」と呼ぶと思ってしまったのです。
 私の義父は青梅出身ですが、「とかげ」を「かまきり」、「かまきり」を「とかげ」と逆に言っていたのを聞いております。この辺でも、お年寄りにこの混同があるか、確かめてみて下さい。
 いま普通に使っている「お父さん」、「お母さん」という呼び方は、明治三十二年、小学校教科書に初めて出てきました。文部省が江戸言葉の「おとう」、「おっかあ」など参考に、新しく作り出した言葉です。
 NHKで、以前日本語共通化に取り組む明治初年の役人の喜劇をテレビで放送していました。あれは殆ど作り話と思われますが、「カガミッチョ」、「カマギッチョ」、「とかげ」、「かまきり」は、それを地で行くような実際のことです。  私は、昔の「カガミッチョ」、「カマギッチョ」という名前のほうが子供の呼びそうな名前で、なつかしい感じがします。みなさんはどう思われますか。

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7月 あさがお

 太閤秀吉が、茶匠「千利休」の庭に『あさがお』が沢山、見事に咲いている、という噂を聞いて、
「ひとつ、あさがおを見せてほしい」
 と頼んだところ、
「お待ちしています」
 という返事に、秀吉は夏の或る日、利休の庭を訪れた。だが、庭の『あさがお』は全部切り取られ、一つも咲いていない。だまされたような気持ちで茶室に案内された。すると、茶室の床の間に『あさがお』が一輪、ひっそりと活けられていた。
 ―さすがは利休―と秀吉は多いに感服した、という話が伝わっている。

 加賀の千代の
 朝顔に つるべとられて 貰い水

という俳句が残されているように、夏の朝咲く「あさがお」は、古くから愛され、むし暑い夏の清涼剤としてみんなに親しまれ、特に江戸時代には改良が進んで多くの品種が創られている。今でも愛好する人は多く、皆様の中にも「あさがお」作りに精を出している方もいることと思います。
 冒頭の話、少し変だと思いませんか?『あさがお』が生け花に?
 そうです、秀吉の頃の『あさがお』は「むくげ」の事を言ったのです。「むくげ」は「あおい」の仲間の庭木(落葉灌木)で、夏から秋に、うす紫、うす紅、白色の花が、朝咲いて夕方しぼむ、よく見られる木です。「むくげ」なら利休の話、変ではありません。もっと古く、紫式部日記に出てくる『あさがお』は「ききょう」だと言われています。こんなふうに植物の名前は、時代とともに変わっているようです。
 皆さんのお宅の庭にも「あさがお」が朝、涼しげに咲き始める頃になりました。向暑の候、夏バテなどせぬよう過ごしたいものです。

8月 「いも」いろいろ

 いも。と聞いて思い起こすもの、年齢によって違うものと考えます。
 フライドポテトなどになじんでいる年代では、馬鈴薯、少し品は落ちるかも知れませんが、石やき芋で、さつま芋も根づよい人気があるようです。
 戦争の食糧難を経験している世代では、芋だけでなく茎や葉まで食べ、飢えをしのいだ苦い思い出が、さつま芋にあります。
 馬鈴薯の原産地は、南米アンデス山地、さつま芋は、中米メキシコです。この二種類の芋は、四百五十年ほど前、さつま芋が少し早くヨーロッパに伝わったようですが、後輩の馬鈴薯が、さつま芋を追いこしてヨーロッパでは重要な作物となりました。
 わが国へは、四百年前の慶長年間、南蛮船が、先ず馬鈴薯を、数年遅れて、さつま芋が入ったと推定されています。しかし肉食の習慣がなく、ヨーロッパと逆に、味が肉に合い、種芋が病気に弱い馬鈴薯が、さつま芋に追いこされ、さつま芋が各地にひろまり、農民の日常の主食となりました。
 わが国の“芋の文化”は、はるか縄文時代にまでさかのぼるようです。主役は、里芋です。焼畑の半栽培の頃、稲作以前の重要な食糧の一つであったと推定されます。その名ごりでしょうか、正月の雑煮には必ず入るものですし、旧暦八月十五日、月見には、里芋が欠かせません。
 昔話に“芋粥”というのがあります。平安時代初期、京都の守護の下級武士が、「一生に一度だけでも、芋粥を腹一杯食べたい。」と言ったところ、それを聞いていた地方の名主が、その武士を自分の領地へ連れて行き、自分の家から大声で「芋を持って集まれ。」と叫ぶと、百姓が沢山の芋を持って集まり、それを大釜で粥に炊いて、武士は腹一杯食べ、大いに満足した、というのがあります。これは山芋です。
 中国雲南省から揚子江の南、日本まで、椿や樫など常緑樹の生えている地域の住民は、里芋や山芋のように粘っこい食べ物が好きです。この習慣から、餅を食べ、日本のお米のように粘りのある米を好んでいるようです。
 しかし、今では芋の主役は、馬鈴薯と、さつま芋に、すっかり変わってしまったようです。
 二百年ほど前の天明の飢饉に、関東より南では、この二種類の芋は、多くの人命を救いました。
 ちょうどその頃、北米産のきく芋が入ってきましたが、わが国では人気がなく、今では秋に道端の草むらに、ひまわりを小さくしたような黄色い花を咲かせています。

8月 きりぎりす

  むざんやな
    かぶとの下の
      きりぎりす


 この句は松尾芭蕉が旅の途中、石川県小松市の多田神社で、斉藤実盛の遺品の兜をみてよんだ句です。  平家物語では、くりから谷から勝ちに乗って攻めてくる木曾義仲を実盛は平家方として加賀篠原で迎えうち、討死にしたと書かれています。そのとき老人と思われるのを嫌い頭髪を染めていたと記されています。
 きりぎりすは、陳列された兜の下にいる虫でしょうか。百人一首にもきりぎりすがよまれていますが、冬近い秋の夜の情景です。ご存知の方も多いと思いますが、少なくとも江戸時代の半ば、芭蕉の頃までのきりぎりすは、『こおろぎ』です。  台所の隅で「肩させ 裾させ…」と鳴く、つづれさせこおろぎの声は冬近い秋の夜のわびしさを一段と感じさせます。
 兜の下のきりぎりすは、この虫と私には思えてなりません。ところで、きりぎりすは草原にいます。残暑の厳しい日ざしの中で、ギーチョンと鳴きます。暑いけれど何となく風に秋を感じ夏休みも終わるなぁと少しもの淋し感じた子供の頃が思い出されます。
 棒の先に5センチ程の切ったネギを糸でつるし、鳴いているきりぎりすに近づけると、しがみついてきます。これを網でとらえればよくつかまえられます。きりぎりすはバッタなどを食べる虫ですから、飼うときキュウリなどのほか煮干しなど餌にして下さい。長い間ギーチョンと鳴いて、行く夏の感じを家で楽しめます。
 夏休み、一つお子様ときりぎりすをつかまえて、飼ってみては如何ですか。

9月 薊(あざみ)

 最近は山菜ブームで、山菜を口にする機会が多くなりました。その一つに『山ごぼう』の漬物があります。行楽地の土産物によく見かけますし、身近では海苔巻き寿司の中にもこの漬物が入っています。歯ざわりがシャッキリとして、なかなかいける味です。
 ところで、この『山ごぼう』、考えさせられることの多い植物です。地方によって『ヤマゴンボ』などといわれる『山ごぼう』。『ごぼう』と同じ菊の仲間で、みなさんおなじみの『アザミ類』に属している植物の根です。
 このあたりでも見られる『ノアザミ』をはじめ『モリアザミ』『フジアザミ』の根は、みんな食べられます。ふだん食べる『山ごぼう』、多くは『モリアザミ』の根です。(特に長野県産のものが多いようです。)
 少し難しくなりますが、植物分類学での正確な『ヤマゴボウ』という植物は、殆ど毒をもっていて食べられません。私たちがよくみかけるのは、北米原産の帰化植物『アメリカヤマゴボウ』です。大きさは一メートル半ぐらい、葉は柿の葉を少し大きくした程度、秋に「ブドウ」に似た黒い穂状の実をつけ、つぶすとインクのような汁が出ます。実物は誰でも見ておられるはずです。根は、“におい"まで『ごぼう』そっくりです。それを正式に『ヤマゴボウ』と名前をつけていますが、毒草です。特に気をつけて下さい。
 話は変わりますが、『フジアザミ』、これは日本固有のもので、富士山に多く(日光にも自生)、草の高さは一メートル、直径十センチちおよぶ大きな紅紫色のみごとな花を、初秋、沢山咲かせます。富士山とともに世界に誇ってよいくらい美しい花です。
「富士には月見草がよく似合う」と作家の太宰治が書き、御坂峠にその石碑がありますが、俗に月見草というのは明治初期に入った外来の『おおまつよい草』ですので、日本在来の『フジアザミ』をとりあげ、「富士にはアザミが似合う」と書いてほしかったと残念に思うのは私だけでしょうか。
 山菜を楽しむのは良いことですが、素人判断で命にかかわることがありますから、お互いに気をつけたいものです。

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9月 ひがんばな

 毎年、九月の下旬頃になると田んぼの畦に真っ赤な彼岸花が咲き始めます。花が終わった後から韮に似た葉が出て、翌年の三月頃になると枯れます。秋に茎だけが伸びて先にまた花を付けます。急に咲くような感じです。
 皆さん、彼岸花が人里離れた山奥で咲いているのを見たことがありますか? 恐らく見た事がないでしょう。
 彼岸花は、日本人の主食である米と関係が深い植物です。ビルマ・タイ・中国の雲南省の接する地域から、中国の揚子江南岸・朝鮮南部・我が国の関東にかけて、椿・椎・樫などの常緑樹の森林が続いています。この地域に住んでいる人達は、餅を食べるなど粘っこい澱粉質の食物を好むという共通した食習慣があります。
 稲作の始まる以前、今から三千年から五千年の昔に、人々が食料として彼岸花を持ってその地域から日本へ渡って来たと言われています。その時代には彼岸花の根を石でたたいて潰したあと水に晒し、澱粉をとり餅にして食べたのです。皆さんもご存知のように、彼岸花には毒があります。水に晒し毒を洗い流すことによって安全に食べられるのです。その後から同じ道筋を通って、粘りのある日本米がわたって来たといわれています。
 人里近くにしか咲いていないのは、大昔、食用のために半栽培した外来植物の「生き残り」だからなのです。
 秋になると少し不気味な、でも美しい赤い花を咲かせる彼岸花にも、こんな過去があったのです。

―彼岸花― 彼岸花科・曼珠沙華とも言い、白い花のものもある。仲間には水仙やアマリリスなどがある。種子では繁殖しない。根に毒があるので一部の地方(四国の山間部ではシレイ餅として食べる)を除いて、今では食糧にはしていない。

10月 そば

 “天ぷらそば”その材料は……皆さんもご存じのとおり、えび-台湾など、ころもの小麦粉、揚げる油と醤油の原料の大豆はアメリカ、そば粉はカナダ、中国などからの輸入品です。国産は“水”と“ネギ”ぐらいでしょうか。(最近はネギも中国からの輸入が増えて、セーフガートの問題が新聞を賑わしました。)
“そば”は“蕎麦”と書きます。麦の字が入っていることでわかるように、昔の人は麦の種類と思っていて“そばむぎ”といっていたようです。後にむぎがとれて“そば”になったといわれています。今から千三百年ほどの昔、原産地の中国東北部から朝鮮をへて渡来したと推定されています。そばとは山のとがっていることを峙(そばだ)つというように、やせたことの表現にも昔は使っていました。東北地方や山の高いところにあるぶなの実-食料になります-をそばぐり、つまりやせた栗といっていることもあります。
 わが国で一番古い歴史の本の古事記に、神武天皇が戦いに勝ってお祝いの酒盛りをしたとき、-古い妻にはそばのように身のついていない肉を、新しい妻には身のついている肉を食べさせよう-との内容の歌をみんなで歌い、大いに笑ったと記してあります。このように昔はやせたことをそばといったのです。ですから麦の仲間の貧弱なものと、少しさげすまれた名前がつけられたのです。そばは古くから天候不順で作物がとれない時、それをおぎなうために作られ、又そのために植え付けを奨励した記録も残っています。荒地で育ち手間がいらず短期間で採れる。飢饉のときの非常食としてうってつけだったのです。
 さて、現在私達が食べているざるそばなどのそばとパンは、わが国でどちらが早く食べられたのでしょうか。現在のめん類のそばは江戸時代の始め、つなぎに小麦粉を入れ、のして細長く切ったいわゆるそばぎりが発明されてから以降のものです。それ以前は粒のままか粉にして練ったもの-そばがき-で食べましたが、調味料がないのでまずかったと思います。調味料の醤油や味噌が大衆化されたのも江戸時代からです。ところがパンは、織田信長や豊臣秀吉が、当時来日したポルトガル人などから製法を習い、好んで食べています。だから、在来のものと思いがちな今のそばの方が新しいのです。
 信長より少し前に渡来した宣教師、フランシスコ=ザビエルは日本で肉が食べられないことを嘆いていますが、パンはおいしいと書き残しています。カステラなどのお菓子もその当時に入ってきたようです。
 冒頭の“天ぷらそば”には、いろいろなことが含まれている気がします。わが国の穀物自給率はみなさんもご承知のとおり、先進国の中で一番少なく、食糧の輸入は世界の国で最大です。たかが天ぷらそばですが、何か大切な教訓があるように思えてなりません。(ここでいっている天ぷらそばは一般のもので、有名店や名物のものは国産ものもだと思います。)

10月 山茶花

 十月も半ばになると、北の国から冬の便りが聞かれるようになり、花を咲かせる木々は殆どなくなります。そのため一段と目立つ樹木の花は、紅や白の「サザンカ」の花です。「ツバキ」ほど品種改良されておりませんし、海外での栽培もひろまっておりません。それだけ素朴な花だけにかえって親しみがもてます。「サザンカ」は初冬に咲く「ツバキ」と似ています。(雪椿や寒椿─山茶花と雑種との説もあります─の仲間は冬に咲きます。)
「サザンカ」は冬に咲くので寒さに強いと考えがちですが、暖地性の植物で露地で育つのは、沖縄から北関東までです。自生地は山口あたりが北限といわれ、九州では山全体に「白花サザンカ」の自生するところもあります。
「サザンカ」と「ツバキ」の区別は(ご存知の方も多いと思いますが)「ツバキ」にくらべ、寒さに弱いこと。そして一番の違いは例外はありますが、「ツバキ」は花ごと散るのに「サザンカ」は花びらが一枚一枚散ります。
「サザンカ」は、山茶花と書きます。茶の花も冬に咲きますから、山に咲く茶の意味でしょうか。素直に読めば「サンサカ」か「サンザカ」になるはずですが「サザンカ」と読ませることんを不思議に考える方も多いと思います。昔は「サンサカ」といっていたのが、いつの頃からか名前が変わったと考えられます。
 言葉がこのようにひっくり返るのは日本語では珍しいことではありません。たとえば新(アタラ)しいは昔は「アラタ」しいでした。その証拠に今でも新年に「アラタ」な年を迎えるなどといっております。  冗談で「あさはか」のことを「あかさか」などということがありますが、長い間には本当に「あかさか」になりかねません。
「ツバキ」に香りがないので、よい香りのある「沖縄ヒメサザンカ」との雑種をつくり、香りをつけようと多くの人が手がけていますが、まだ成功していないようです。 「山茶花、山茶花、咲いた路、たき火だ、たき火だ、落ち葉たき…」の唱歌は、この頃の季節をうまく表現していますが、「しもやけ、お手々がもうかゆい」の「しもやけ」。最近ではすっかりみかけなくなりました。もしかすると若い人は「しもやけ」という言葉も知らなくなった時代なのかもしれません。

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11月 「なす」と「ねずみ」

 民謡の会津磐梯山-笹に黄金がなりさがる-の詞があり、次に小原庄助さんが登場します。この庄助さん、今から三百年ほど前、会津若松の商人として実在、酒豪として有名でした。
 こんな話題を入れたのは、会津地区の笹が寛永六年(三三十年ほど前)一斉に咲き、六十年後に再び咲いた記録が残っているからです。一斉開花後、笹は麦に似た種子を一反歩、三俵ほどならすとのこと、そうなれば“宝の山”そのものです。開花後、笹は枯れます。
 ご存知の方も多いと思いますが、笹類は、三十年、六十年の周期で開花します。六十年は人間では還暦に当たり、広域での一斉開花は目につくので古くから歴史に残っております。
 宝の山、山の中ですから、人間より「ネズミ」の宝です。一反歩、三俵の笹の実があれば、栄養満点、人口-鼠口-は急増、「ネズミ」の大発生は、森の苗木、農作物には大災害です。ただ、次の年は笹が枯れるので、だんだん「ネズミ」の害はおさまります。
 「ネズミ」は大昔から、きらわれていました。大切な食料を取られたり「ペスト」「つつが虫病」など媒介したりするからです。
 そんなことから、昔の人は「ネズミ」を忌み言葉にし、特に祝日には口にせず、関東では「嫁」、関西では「嫁が君」、他地区では「夜のもの」、沖縄では「上の人」と、直接よばない迷信ができました。
 そのため、江戸時代「ネズミ」は俳句の正月の季題となり、榎本其角は、
“明る夜も、ほのかにうれし、よめが君”
という句をよみ、同時代の和歌に、
“秋なすび、
  わささのかすにつけまぜて、
  棚に置くとも、嫁に食わすな”
というのがあります。いずれも嫁は「ネズミ」のことです。
 『秋なすは嫁に食わすな』は、「秋なす」はおいしいから、嫁に食わせてはもったいない、嫁いびりの表現とされていますが、この和歌が誤って世の中に伝わったと考えたほうが、よさそうな気がします。
 宇宙まで人間が行ける時代、大都会から山野まで人間に害を与える「ネズミ」の繁殖を防げないのも、現代の姿の一つなのかもしれません。

11月 雑木林」

 関東平野名物の“からっ風”に落ち葉が舞い、雑木林の木々の枝を冷たい風が吹きぬけて行く季節になりました。
 みなさん、多分、中学の国語で習われたと思いますが、明治の作家、国木田独歩の随筆「武蔵野」に雑木林のことが、くわしく述べられています。
 独歩は「武蔵野」を書いたとき、渋谷に住んでいましたので、その近辺の情景を主に記したといわれています。“若者の街”東京の渋谷です。
 当時、渋谷に陸軍の演習場(現在はNHKが所在)ができました。少したった大正四年の人口調査では、渋谷の戸数、約一万五千戸、農業五百戸と記されています。八十年前の状況はこんなで、変化の激しさに驚かされます。
 ところで雑木林は、武蔵野特有の落葉樹の林で「くぬぎ」「なら」「くり」、林のふちには「えご」。ところどころ赤松がそびえています。昔からの自然そのものと思いがちです。
 大昔、今から二千年より前の武蔵野は、一年中葉が緑の「かし」「しい」など、林内には「やぶ椿」の赤い花の咲く、うす暗い森林地帯だったと推定されています。
 その森を人が焼き、開発して行きました。焼け跡は畑にもしましたし、ススキの生えた原野は牧場にもなりました。(関東武士団の乗った馬の産地)武蔵野=ススキの原野=は関西の人たちには、特に印象が強かったようです。
 現在、二千年前の武蔵野の姿は、都内でもわずか神社の境内にあります。神社には常緑樹の森が比較的よく保存されています。
 近年、特に江戸時代、武蔵野の開拓がすすみ、農業主体に人が多く住むようになってきました。すすきの原野にまず生える落葉樹の雑木を当時の人は上手に利用しました。一戸、または集落ごとに落葉性雑木を一定面積植林し、落葉は、冬集めて畑の肥料に使い、五%ぐらいの面積に生えている木を切って薪にし(切ったあと二十年ほどで、切り株は元に再生します)生活しました。林は手入れをしないと自然の姿、周期的に利用できない常緑の「かし」などの林になってしまいます。  そのため冬、落ち葉を集めるのと一緒に、めばえた無駄な木を退治して、大切に落葉性の雑木林を守りました。
 自然そのものと思っている武蔵野の雑木林はこのように私たちの先祖が大切に育ててきた゛人口林゛です。
 現在は肥料・燃料ともに雑木林を必要としておりません。やっと開発をまぬがれ、残っている雑木林も手入れをしていないので常緑樹の優勢な昔の姿に戻って行くと考えられます。
 そんなこともあるせいか私自身、雑木の寄せ植えの盆栽を作りたい気持ちにかられているこの頃です。

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12月 「松」

 お正月を迎えると何となく明るい気分になります。
 大昔のわが国は「明るい」から「あか」、暗いから「くろ」ぐらいの大まかな色の区別しかなかった、という学者もいます。今でも「あおい」は「みどり色」「みず色」両方をさし、色の区別はうるさくないようです。
 話はかわりますが、日本人は松が好きです。名勝といわれる場所や、日本画の風景、松がなくてはなりたちません。
 松は、日あたりのよい土地に生え、やせ地でも立派に成長する丈夫な木です。近ごろ、松くい虫のため、赤枯れた松林が目立ちますが、そんな林も、日のあたる所は松が芽生えて、五十年もたてば立派な林にもどると思われています。
 日本の庭は、松が主木、盆栽も松がよろこばれるようです。
 それらの松は、老松の感じをだすため、新芽が出ると、三分の二ほど手でつむことが大切です。
「赤ちゃん」を「みどり児」といいます。お尻が「あおい」から「みどり児」でしょうか。それでは「みどりの黒髪」は「あおぐろい黒髪」になってしまいます。みなさんご存知のとおり、松の新芽を「みどり」といいます。「みどり色」は松の新芽の色のことです。「みどり児」の「みどり」は、松の新芽のように、若々しい、活気にみちた、ということなのです。
 新しい年に松をかざる―それは昔から人々が松に親しんだことをしのばせるものなのです。

12月 みかん

 “みかんの花が咲いていた
  思い出の路、丘の路……”
 戦後、すさんでいた人々の心を、この童謡はなざませてくれました。
 正月になると、食べものの少なかった私の子供の頃、木の箱から、みかんをとりだして、こたつで暖まり食べたことは今でも忘れません。
 遠足の時には、酸っぱくて歯がきしむ、昔の夏みかんを、ゆで卵と一緒に持っていったものです。
 みかん、といえば、忠臣蔵で有名な元禄時代に、紀伊国屋文左衛門が、荒れた冬の海を、和歌山から江戸まで、紀州みかんを船で運び、大もうけしたと伝えられています。紀州みかん-甘く小粒で種があります。今から四百年前に、鹿児島県の長島で、種なし大粒の今の温州みかんが偶然実生で発見されましたが、種なし-子ができない-の迷信から、温州みかんは明治になってから、やっと、みんなに認められるようになりました。今のみかんは殆んど温州系のものです。「うんしゅう」、中国の上海の南方の地名ですが、温州みかんは、れっきとした日本産です。
 柑橘類は、いろいろの用途に使われます。日本料理で香味料に用いる「ユズ」「スダチ」「カボス」から、沖縄の「シークワーサー」(ス食ワスのなまった言葉)まで、全部「す」という字が入っていて面白いと思います。
 酸っぱい物の代表、昔の夏みかんは、山口県の青海島で、今から約三百年前-西本ちょう-という女性が海辺でみつけた果物の種から育てたのがもとで、今でもその原木は天然記念物で保存されています。農産物輸入で問題となった「ワシントン・ネーブルオレンジ」、米国のティベッツという女性がみつけたといわれており、女性と柑橘類は、いろんな意味で縁が深そうです。
 グレープフルーツ、グレープは「ぶどう」です。この命名、ご存知の方が多いと思いますが、ぶどうのように房になって実るためについたものです。これは今から二百年ほど前に、米国東海岸の西インド諸島で東洋系の「ザボン」からできたといわれています。
 日本では「ザボン」はできても、気候的に生産できないのは残念です。冬、ビタミン類の多い、みかんを沢山たべ、健康に役だてたいと思います。

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